エラベノベル堂

壁画ひび割れ予兆録

全年齢

小説ID: cmneptu6c000301nws90plb09

5章 / 全10

神殿を出たとき、昼の光は刃のように白かった。燈子は目を細めながら、複写図の筒を抱えて管理棟へ急いだ。南西区画の点検が始まっても、壁画の新しい細線が意味するものが分からなければ手遅れになる。鳥の列の先、水路の青の外側。これまでの風や水や揺れの記号と違い、その線は区画ではなく都市の輪郭を横切るように伸びていた。局地的な異変ではない。もっと大きい。そう思うほど、喉の奥が乾いた。 管理棟ではすでに慌ただしい足音が交差していた。井戸の水位が急に落ちている、南西の宿舎地面に裂け目が出た、資材庫の床がわずかに傾いた。報告は小さいのに、どれも同じ方向を向いている。燈子は机を借り、神殿最深部の石盤図を広げた。星形の中心から各区画へ伸びる線。その外周に、これまで見落としていた薄い環がある。装飾だと思っていたその輪に、今朝の新しいひびの位置を重ねた瞬間、背筋が冷えた。 「都市を閉じるための線じゃない。開くための線だ」 自分の声に、ミラが顔を上げる。燈子は地図の外縁、古い排水路と埋もれた避難路の位置を指した。古代の壁画は異変を予告するだけではない。一定の順序で区画を空け、人の流れを誘導し、地中にたまる圧力と水の逃げ道を確保する。そのための手順まで刻んでいたのだ。守るとは、押さえ込むことではなく、通すことだった。 そこへアディールが駆け込んできた。額に砂を貼りつけ、珍しく息を乱している。 「西の観測塔から連絡だ。地平の向こうで砂が持ち上がってる。規模が大きい」 燈子はうなずいた。やはり来る。揺れ、水脈の偏り、その次は都市全体をのみ込む砂の移動だ。だが鍵は砂嵐そのものではない。その直前に排水路と地下の空洞をつなぎ、圧力の偏りを逃がすこと。南回廊の最深部は、その起点だった。 ラシードは遅れて部屋に入ってきた。顔色は悪いのに、まだ決断だけが遅い。燈子はもう説得に時間を使わなかった。図面を彼の前に置き、短く告げる。 「発掘成果を守りたいならなおさら、今すぐ外周の通路を開けてください。封鎖したままなら神殿ごと沈みます」 彼は反論しかけ、しかしアディールが先に口を開いた。 「名声の話をしている場合じゃない」 その一言で、室内の空気が変わった。ラシードは長く黙り、やがて視線を落とす。彼が警告の解釈を遅らせていたことも、未公開区画の調査権を独占しようとしていたことも、もう隠しようがなかった。それでも燈子は責め立てず、必要な指示だけを並べた。南西区画の退避、外周通路の開放、古井戸周辺の立入禁止、神殿下の排水溝の掘り起こし。限られた協力者たちはすぐ散っていく。 最後に燈子はもう一度神殿へ向かった。薄暗い回廊の先で、石盤の溝には先ほどよりはっきりと水が集まり、星形の外周へにじんでいた。壁画は破滅の予言ではなかった。都市が生き延びるための順路そのものだったのだ。彼女は掌を石に当て、古代の無名の修復者たちに触れるような気持ちで目を閉じた。壁はずっと前から答えを示していた。ただ、人間の欲がその文字を曇らせていただけだった。

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