エラベノベル堂

壁画ひび割れ予兆録

全年齢

小説ID: cmneptu6c000301nws90plb09

5章 / 全10

広場の喧騒が遠のいても、葵の胸のざわめきは消えなかった。夕闇の名残が石畳に沈み、神殿の壁だけが夜を先に抱え込んでいる。彼女は理仁と別れたあと、誰にも見つからないように修復具をまとめ、ひとりで回廊の入口へ向かった。 「本当に行くのか」 暗がりの奥から聞こえた低い声に、葵は肩を跳ねさせた。振り返ると、理仁が遅れて追いついてきていた。 「来ないでって言ったのに」 「言われたけど、放っておけない」 理仁は小さく笑ってみせたが、その顔は緊張で硬い。 「真斗に見つかったら面倒だろ」 「もう、面倒で済む段階じゃないかもしれない」 葵はランタンの光を落とし、狭い階段を下りた。石壁はひんやりとして、昼の熱をすっかり飲み込んでいる。足音が回廊に吸われるたび、古い空気が静かに揺れた。 「ここ、修復の記録には残っていない」 「残してないんじゃなくて、残せなかったのかも」 葵はそう呟き、壁の継ぎ目に指先を当てた。昼間まで見えていた劣化とは違う、意図的に埋めたような痕がある。薄い漆喰の下に、何かが眠っている感触だった。 「これ……」 理仁が息を呑む。葵は慎重に道具を差し込み、修復痕の端をわずかに剥がした。ぱらり、と乾いた粉が落ちる。その奥に、別の線が覗く。 文字だった。 「見える?」 「うん。古い記録文……追記だ」 葵はランタンを近づけ、指で粉を払いのけた。そこには、かつてこの都市を守った技術者たちの記録が、壁の内側に隠されるように刻まれていた。外からはただの崩れに見えるよう、わざと傷を重ね、災害の予兆に見せかけていたのだ。 「略奪から守るために……?」 理仁の声がかすれる。 「そう。文化財を見つけた連中に、簡単に踏み込ませないための偽装だ」 葵は追記の行を目で追った。そこには、壁画が単なる飾りではなく、危険を知らせる記号へと作り替えられた経緯が書かれている。あのひびは偶然でも、迷信でもない。誰かがこの都市を守るために、痛々しいほど巧みに仕組んだものだった。 「じゃあ、地盤の危険っていうのも……」 「警告として使われた可能性が高い」 葵はゆっくり息を吐いた。裏に隠された意図を知った瞬間、今までの疑問がひとつの形にまとまっていく。壁画は壊れていたのではない。壊れて見えるように、守りの言葉として残されていた。 理仁が追記の最後を指さす。 「ここ、まだ続きがある」 葵はうなずき、さらに粉を払った。けれど文はそこで途切れている。石の奥は、まだ何かを隠していた。 「……全部は、この先か」 彼女はランタンを持ち直し、文字の残滓を見つめた。深夜の神殿は、まるで長く閉ざしていた口をようやく開いたように静かだった。

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