エラベノベル堂

壁画ひび割れ予兆録

全年齢

小説ID: cmneptu6c000301nws90plb09

8章 / 全10

正午を少し過ぎた頃、神殿の修復区画には白い光が斜めに差し込み、石灰の粉を淡く浮かせていた。葵は壁面に貼った保護紙をそっとめくり、剥離しそうな一枚の層に指先を当てる。 「……ここだ」 隣で理仁が息を詰めた。 「剥がすのか」 「うん。でも乱暴にはいかない。文字を潰したら終わりだから」 葵は細いヘラを差し込み、乾いた漆喰の境目を少しずつ広げた。ぱり、と小さな音がして、壁の奥から別の絵肌が顔を出す。上塗りの下に隠れていたのは、装飾とは明らかに違う、簡潔な象形の連なりだった。 「……やっぱり」 理仁が覗き込む。葵は目を走らせ、図形の順番を追った。 「これは絵じゃない。手順書だ」 「手順書?」 「災害を避けるための。どこを塞いで、どこを開けるか、順に示してる」 象形は、地下の水の流れを変える印、支えを移す印、危ない層を避ける印へと続いていた。壁画は予兆ではなく、危機をかわすための道筋そのものだったのだ。 葵の胸の奥が熱くなる。 「こんなものを、飾りの下に埋めてたなんて……」 「見つけにくくするため、か」 理仁の声は低い。彼もまた、線の意味に気づいていた。 「そうだと思う。誰かが読める人にだけ、辿り着けるように」 葵は次の象形へ指を伸ばした。その先に、神殿の外縁を示す記号がある。都市の一角を守るような線が、最後の行に向かって引かれていた。 「あと少しで全部読める……」 その時だった。 足元から、ぐ、と鈍い振動が伝わる。最初は遠い鼓動のようだったものが、次第に骨の底まで響く揺れに変わった。 「葵、揺れてる!」 理仁が声を上げる。彼女はヘラを握ったまま周囲を見た。修復区画の支柱が小さく鳴り、粉がぱらぱらと落ちる。 「機材の振動だ……発掘が近くで動いてる」 次の瞬間、区画の外から砂を押し潰すような低い音がした。誰かの叫び声が重なり、石畳の向こうで空気が落ちる感触が広がる。 「まさか」 葵が壁から顔を上げたときには、修復区画の先、都市の一角で地面がわずかに沈み込んでいた。石がずれ、土が崩れ、見慣れた通路の端が綺麗に折れ落ちる。 「陥没だ……!」 理仁が駆け出しかけて、すぐに葵の腕を取った。 「まずい、ここも危ない」 葵は振り返り、まだ剥がしきれていない象形図を見た。最後の行は途中で切れている。読み終える直前だったのに、都市は先に悲鳴を上げてしまった。 遠くで人が呼ぶ声がする。葵は震える息を飲み込み、壁に残る手順書へ視線を戻した。 「……まだ、終わってない」 その声は、揺れに消されそうなほど小さかった。

8章 / 全10

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