エラベノベル堂

壁画ひび割れ予兆録

全年齢

小説ID: cmneptu6c000301nws90plb09

9章 / 全10

陥没の知らせは、風より早く広場に広がった。石畳の向こうで人の声が跳ね、資材を運ぶ足音が乱れ、神殿前の空気だけが妙に張りつめている。葵は壁画の写しと密約の記録を抱え直し、夕闇の中に立つ真斗をまっすぐ見た。 「来てください。ここで、全部見せます」 「何をだ」 真斗は動かない。だが視線だけが、彼女の手元へ鋭く落ちた。葵は布で包んだ資料を開き、地下回廊で見つけた追記の写しと、持ち出し用の梱包箱の記録を広げる。 「壁画の証拠です。都市を守るための偽装でした。それに、管理権を国外へ渡す話も、記録に残っています」 「くだらない」 真斗の口調は静かだった。静かすぎて、かえってひび割れた。 「偶然重なっただけの危険と、解釈の違う古文書を並べて、何が言いたい」 「偶然じゃない。あなたは知っていたはずです」 葵が一歩踏み出すと、真斗は片手を上げた。 「現場は混乱している。責任の所在を曖昧にしたまま、私に全てを押しつける気か」 「責任逃れなら、もう十分です」 その声を切り裂くように、理仁が前へ出た。彼の手には端末がある。 「逃げる前に、これを見てください」 真斗が眉をひそめる。その瞬間、理仁はためらいなく画面を開いた。通信記録の一覧が、連なる光の列になって浮かび上がる。 「調査データの複製、搬出指示、国外機関への接触履歴。今、全部公開しました」 「何をした」 真斗の声が初めて揺れた。 理仁は端末を高く掲げる。 「一部じゃありません。国際機関へ一斉送信です。もう、あなたの言い逃れは通りません」 周囲の調査員がざわめき、数人が端末を確かめる。次々と顔色が変わっていく。真斗は一歩だけ後ずさり、すぐに平静を装った。 「証拠の切り貼りだ。私を陥れるための芝居だろう」 「なら、見てください」 葵は資料を突きつけた。ひびの連なり、追記の写し、箱の管理札。全部が一本の線で結ばれている。 「壁画は、都市を壊す発掘を止めろって教えていた。なのにあなたは、それを無視した」 真斗の唇がわずかに歪む。言葉を探すように口を開きかけたが、もう遅い。広場の端から、誰かが通信の受信を告げる声を上げた。 「国際機関から返信です。記録、届いています」 その一言で、空気が変わった。真斗の肩から力が抜け、葵はようやく息を吐く。だが安堵はまだ薄い。陥没の揺れは収まっていないし、神殿の壁は夕闇の中で沈黙したままだ。 理仁が小さく言った。 「送れた……」 葵は真斗を見据えたまま、資料を胸に抱き寄せる。 「これで終わりじゃない。でも、隠すことはもうできない」 神殿前に吹き抜けた風が、砂を細く巻き上げた。真斗の返事はない。ただ広場の向こうで、崩れた地面を見つめる人々のざわめきだけが、遅れて夜へ滲んでいった。

9章 / 全10

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