資料室で拾い上げた疑いは、悠斗の胸にずっと冷たいまま残っていた。だから彼はそのまま、水門管理棟の裏手へ回った。職員の目が少ない時間帯で、保守通路は半分以上が灯りを落としている。壁の向こうで水が流れる音だけが、やけに大きい。 「……こっちか」 点検用の小窓から身を寄せると、立入制限の札が下がった先に、補修板で塞がれた壁面があった。そこだけ新しい金具の光沢が浮いている。悠斗は息をひそめ、指先で縁をなぞった。 「最近、触られた跡だ」 塗り直したばかりの継ぎ目、締め直したネジ、まだ乾ききっていない防錆剤の匂い。見慣れた保守の手つきなのに、どこか急いでいる。しかも、その先へ続く管の振動は、普通の排水とは少し違っていた。流れを逃がすためではなく、溜め込むための静けさだ。 「隠してる……何かを」 悠斗は耳を壁に寄せた。向こう側で低く響く水音が、一定の間隔で押し返してくる。放水塔の時刻表と重なるあの癖が、ここでも生きている。だが今夜のそれは、普段よりも深く、重い。まるで下へ下へと水を抱え込むために、管の内側を調整しているみたいだった。 彼は音符帳を開き、板の隙間から聞こえる圧の変化を書き留める。線を引くたび、昨日まで曖昧だった像が少しずつ固まった。 「雨季の増水を待つんじゃない。増水したとき、下層区へ集めやすいように……先に流れを作ってる」 喉が渇く。言葉にすると、推測はひどく具体的になった。上層区は自然の気まぐれを装いながら、下層区へ余分な水を寄せる準備を進めている。そう考えると、壁の向こうの静かな響きが、ただの作業音には聞こえなくなる。 「これが本当なら、誰かが沈む」 悠斗は唇を噛んだ。怒りより先に、背筋へ冷たい確信が走る。都市のうなりは警告だったのかもしれない。聞き逃していたのは、自分たちではない。隠したい流れの方だった。 彼はもう一度、壁の継ぎ目を見た。新しい金具の列は、確かに異常の跡だ。しかもそれは一つでは終わらない。通路の奥へ向かうほど、補修は整いすぎていて、逆に不自然だった。 「準備だ……これは」 声が小さく落ちる。悠斗は音符帳を閉じ、胸の内で何度も同じ言葉を繰り返した。準備。隠蔽。口実。まだ確証は足りない。それでも、目の前の壁の向こうにあるものが、雨のせいでは済まされないことだけは、はっきりしていた。 彼は一歩下がり、暗い通路の先へ視線を投げた。調べるべき場所は、まだ残っている。だが今夜の発見だけで、都市の水の顔つきはもう別物に見えた。
水都脈動譜
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