上層区を出るころには、雨は石畳の色を変えるほど強くなっていた。アサギは胸の内側に予定表と複写紙を押し込み、昇降機塔の籠に乗る。下降するあいだ、塔の骨組みを伝って風が鳴き、まるで都市全体が歯の合わないまま回り続けているようだった。中層区へ戻ると、いつもの湿った空気が妙に生ぬるい。嵐の前の水は、まだ落ちていないのに重い。 彼はまっすぐ北主管の弁室へ向かった。灯りを絞り、管の継ぎ目へ耳を当てる。今夜のうなりは、これまででいちばん明瞭だった。長、短、短、長。間を置いて深い脈動が二度。さらにそのあと、低く伸びる震えが北から東へ移っていく。手帳の印と配管図を重ねると、ひとつの線が浮かび上がった。第六貯水槽から落ちた水圧が、北系統を通って中層北寄りの補助弁へ集まり、そこから下層域外縁へ逃がされる。だが逃げ道の先には、もう水を受ける喉がない。 「やっぱり、ここが首だな」 独り言のように呟いたところへ、背後で靴音が止まった。振り返ると、同僚のハルが点検灯を掲げていた。夜番帰りに軽口を叩いていた男だが、今の顔には笑いがない。 「お前、昼から姿が見えなかった。上まで行ってたんだろ」 アサギは一瞬迷い、それでも紙束を見せた。ハルは目を走らせ、眉を寄せる。 「こんなの、管理局が通すわけ」 遠くで雷が割れ、弁室の壁が震えた。同時に、床下からどん、と鈍い衝撃が返る。試験ではない。予備放流がもう始まっている。 「通すんじゃない。通すつもりだ」 アサギは配管図を広げ、指で経路をなぞった。 「この補助弁が切られれば、下の外縁に圧が集中する。埋められた放水路の手前で水が詰まり、逆流したら中層北も危ない」 ハルは唇を噛み、図面と管を見比べた。現場の人間の目が、ようやく紙の上の数字を実感へ変えていくのがわかる。 「証拠を持って監督へ行く。だが、あの人がすぐ動くとは限らん」 「だから先に測る」 アサギは手帳を開いた。 「うなりの間隔で、圧の立ち上がる時刻が読める。次の深い脈動が来るまでに、北寄りの弁室と下層へ伝令を回す。避難が必要な区画を絞れれば、誰かは信じる」 そこへ、濡れた外套を抱えたシオンとユナが駆け込んできた。シオンの頬には雨筋が走り、ユナは書類筒を両腕で抱いている。 「外海側の風が変わったわ」 とシオンが言う。 「壁に当たるまで、もう半刻もない」 ユナは筒から古い区画図を抜き取った。 「閉鎖された放水路の先、今は倉庫街と集合住宅になってる。知らずにいたら逃げ遅れる」 狭い弁室に四人の呼吸が重なった。管は足元で、急かすように低く鳴る。都市のうなりは、いまやただの異変ではなく、時計の針だった。 アサギは工具箱の留め具をはずし、中から予備の弁鍵と赤鉛筆を取り出した。図面の上に危険経路を太く引く。北主管、補助弁、下層外縁、逆流の恐れがある中層北区画。線は一本では終わらず、都市の体内を裂く傷のようにつながっていく。 「全容は掴んだ」 彼は仲間たちを見た。 「次は、この音を人の言葉に変える番だ」
水都脈動譜
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