壁越しの確認を終えたあと、悠斗はしばらくその場を動けなかった。通路の灯りは弱く、金具の冷たい光だけがやけに目につく。胸の中では、さっきまで一つだった疑いが、もう後戻りできない形へ固まりつつあった。 「……千尋に、話すしかないか」 口にした瞬間、決心が少しだけ現実味を帯びる。彼女なら、この都市の配管をただの図面じゃなく、暮らしそのものとして見ている。だからこそ、隠しごとはできない。だが同時に、伝えれば終わりではないとも分かっていた。 悠斗は下層区へ戻り、昼間には閉まっていた共同浴場跡の脇へ回った。今は臨時の集会所として使われていて、湯気の代わりに油灯の匂いが漂っている。湿った石壁には古いタイルが残り、そこへ簡素な机と椅子が並べられていた。 「遅いじゃない」 奥から出てきた千尋は、工具袋を肩にかけたまま眉を上げた。 「ごめん。少し、見てしまって」 「見てしまった、で済む顔じゃないわね」 彼女はすぐに察したようだった。悠斗は音符帳を開き、記録した旋律、放水塔の時刻、保守通路で見た補修跡を順に示した。 「上層区が、増水を口実に下層区へ水を集める準備をしてる」 千尋の指先が止まる。 「つまり、わざと?」 「まだ言い切れない。でも、流れは作られてる。自然に見せかけてるだけだ」 「それを公開記録にするつもり?」 「するべきだと思う」 千尋はすぐにうなずかなかった。机の端を指で叩き、少しだけ視線を落とす。 「公開すれば、下層区は動く。でも、上層区も黙ってない。証拠の出し方を間違えたら、こっちが騒ぎを起こしたって片づけられる」 「でも黙っていたら、もっとひどいことになる」 「そう。だから迷うのよ」 二人の間に、油灯の小さな火が揺れた。悠斗は思わず、音符帳を握る手に力を込める。 「都市のうなりは、もう答えを出してる気がするんだ」 「答えって?」 「隠すなって。聞こえたものを、なかったことにするなって」 千尋は短く息を吐いた。 「詩人みたいなこと言うのね」 「技師のくせに、って言いたい?」 「少しだけ」 その返しに、悠斗はかすかに笑った。けれど笑いは長く続かない。千尋は椅子を引き、机の上の図面を見つめたまま言う。 「私は記録の価値は分かる。けど、公開するなら、誰にも奪われない形にしないといけない」 「どうすればいい?」 「まだそこまでは決められない。でも、今夜ここで結論を急ぐ必要はないわ」 悠斗は頷きかけて、ふと音符帳の端に目を落とした。ページの余白に、さっきまで気づかなかった小さな湿りがある。まるで、水の気配が指先へ滲んだみたいに。 「千尋」 「なに」 「これ、ただの記録じゃ終わらないかもしれない」 彼女は何も言わず、じっとそのページを見た。油灯の火が、二人の影を静かに揺らしていた。
水都脈動譜
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