鐘の余韻が雨の幕に溶けるころ、北主管の弁室はもう戦場のようだった。壁の向こうを走る水の気配が、石まで脈打たせている。アサギは濡れた手帳を開き、これまでの印の上に今夜の震えを書き足した。長、短、短、長。そのあとに来る深い脈動の間隔が、先ほどより明らかに詰まっている。嵐の圧が外から押し込み、上層の貯水が内から突き上げている。都市は二つの拳で同時に胸を圧されていた。 「北だけじゃない」 アサギは図面に赤鉛筆を走らせた。北主管から受けた圧が、東側の旧分岐へ逃げようとしている。埋め戻されたはずの旧配水路が、完全には死んでいない。石と泥の下に残った空洞が、細い息の道になっているのだ。 ハルが弁の把手に体重をかけたまま叫ぶ。 「こっちを締め切れば下層外縁へ落ちる。開ければ中層東へ回るぞ」 どちらも人の住む場所だった。アサギは一瞬、喉の奥に苦いものがせり上がるのを感じた。管理局が公表をためらった理由が、今なら骨までわかる。数字の上では最小の損失でも、その一角ごとに灯りがあり、寝息があり、明日の支度がある。 「回し方を変える」 彼は顔を上げた。 「落とすんじゃなく、遅らせる。東の旧分岐と南の沈殿槽をつなげば、波を薄くできる」 ユナが目を見開く。 「旧分岐は封印記録しかないわ。開く鍵が」 「図書保管庫にあったはずだ」 とハルが言った。 「閉鎖設備の共通鍵台帳、前にお前が探してただろ」 ユナは頷くより先に駆け出した。シオンは外気の唸りを聞き分けるように窓の隙間へ耳を寄せ、それから短く告げる。 「雨脚が変わる。次のひと山で一気に来る」 時間は削られていた。アサギは北区の技師たちを集め、図面の上で即席の経路を書いた。正規の放水計画を否定するだけでは足りない。今この場で、別の流し方を示さなければ誰も動けない。古い沈殿槽を緩衝池として使い、使われていない導水管へ少しずつ逃がす。通常なら検討会を幾つも通す案だ。だが水は会議を待たない。 やがてユナが錆びた鍵束を抱えて戻り、その後ろには避難誘導を終えた下層の荷運び人や、半ば事情を聞きつけた現場の工員たちまでついてきた。管理局の命令ではない。鐘と雨音のあいだで、自分たちの街を守るために集まった顔だった。 「旧東分岐を開けるぞ」 アサギが言うと、誰も異を唱えなかった。 激しい風に煽られながら、一行は閉鎖された回廊を進んだ。扉の向こうの旧配水路は、長く忘れられていたせいで墓所のように冷え、塩の白さが壁を星空みたいに覆っていた。だが耳を澄ませば、その奥でまだ水は生きている。細く、震えながら、助けを求めるように。 アサギは鍵を差し込み、固着した弁輪に手をかけた。背後で何人もの手が重なる。次の脈動が来る。長、短、短、長。都市のうなりが、まるで答えを急かすように腹の底まで響いた。彼は息を吸い、仲間たちとともに凍りついた時間を回しはじめた。
水都脈動譜
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