エラベノベル堂

水都脈動譜

全年齢

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7章 / 全10

凍りついた弁輪は、最初は石の一部みたいに動かなかった。だが幾人もの手が重なり、金属のきしみが骨のような音を立てた次の瞬間、わずかに回る。アサギはその手応えに全身の力を込めた。錆と塩がはじけ、閉ざされていた旧東分岐の奥から、押し殺していた息を吐くような低音が返ってくる。 「止めるな、少しずつだ」 一気に開けば、眠っていた水路そのものが砕けかねない。アサギは耳を弁胴へ当て、流れの太さを音で測った。北主管の唸りが一段高くなり、その下で旧分岐へ回り込む細い流れが生まれる。濁った咳のようだった音が、やがて長く伸びる息へ変わった。 そのとき、遠くで鐘がまた鳴った。ユナが青ざめた顔で言う。 「下層外縁の西倉庫群、避難が遅れてるって」 シオンもすぐに続ける。 「風向きがずれた。海側の押し込みが北じゃなく西へ寄ってる」 アサギは図面を見下ろし、胸の奥が冷たくなるのを感じた。管理局の予定表が想定していた危険域と、実際に水が暴れようとしている場所が違う。嵐が進路を半歩変えただけで、都市の弱い継ぎ目は別の場所に浮かび上がる。犠牲にされるはずだった区域だけでは済まない。 「西へ行く」 ハルが目を剥いた。 「ここを離れたら調整は」 「任せる。音が高くなりすぎたら半刻ごとに締めろ。低く沈んだら南の逃がし口を足せ」 言葉にすると、技師たちがすぐ頷いた。もう誰も、アサギの耳をただの癖とは思っていない。都市のうなりが、今夜だけは図面より確かなものになっていた。 アサギはシオンとユナを連れ、西側の連絡回廊へ走った。風は塔の間で渦を巻き、雨粒は針の群れみたいに頬を打つ。途中の橋では、荷運び人たちが子どもや老人を背負い、高い通路へ押し上げていた。誰かが転び、誰かが手を伸ばし、そのたびに灯りが揺れる。都市は機械ではなく、無数の呼吸で持ちこたえているのだと、アサギは走りながら思った。 西倉庫群の下にある点検口へ着くと、足元の石が不穏に震えていた。耳を当てる。北主管の重い声ではない。もっと浅く、速く、焦れた水音。旧記録で見たことがある。埋設済みとされた補助路が、地下でまだ西へつながっている。計画書にない抜け道を、水が勝手に見つけているのだ。 「だから公表しても信じられなかったんだな」 ユナが息を切らしながら呟く。 「上も、全部は把握してない」 管理局は冷酷だったのではない。ただ古い都市を知ったつもりで、知らないまま選ぼうとしていた。アサギは点検口を開け、内部の小弁に手をかけた。ここを調整すれば、西へ回る流れを一時的に削げる。その代わり、別の経路が膨らむ。答えはひとつではない。だからこそ、音の地図がいる。 彼は濡れた手帳を開いた。線と点で埋まった頁は、いつのまにか都市そのものの鼓動に見えた。長、短、短、長。今夜のうなりは恐怖ではなく、まだ間に合う場所を教えている。アサギは目を閉じ、次の脈動を待った。嵐の中心は、もうすぐそこまで来ていた。

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