海老原が印をつけた入江は、島の北東に張り出した岩場の陰にあった。晴れた日なら小舟を避難させるには都合がいいが、風向きが変わる夜には潮が巻く。遼は海図を覗き込み、鉛筆の先ほどのその印が、急に生身の誰かの居場所へ変わるのを感じた。 「港の船は」 「外へは出せん。だが陸からなら寄れる場所がある」 海老原は消防団へ回した連絡の控えを引き寄せ、地名を二つ告げた。古い作業道と、崩れかけた見張り台。元漁師らしい記憶の引き出しが、嵐の夜にひとつずつ開いていく。診療所の廊下では長靴の足音が絶えず、当直の看護師が毛布と点滴の箱を運び、事務長が役場へ電話を入れていた。小さな建物全体が、風に押されながらも同じ方向へ身を傾けているようだった。 遼は格納庫で最終確認を続けた。機体の表面を打つ雨は容赦なく、手袋越しにも冷たさが染みる。飛べるかどうかはまだ決まらない。だが飛べないと決まったわけでもない。曖昧なまま備えるしかない時間が、いちばん気持ちを削るのだと知った。 医師がヘルメットを抱えて現れ、短く言った。 「風速が少しでも落ちれば出る。そのための準備を切らさないでくれ」 「はい」 返事はしたものの、喉の奥は乾いていた。もし上がれば、自分の整えた一つ一つが命綱になる。もし上がれなければ、その判断にもまた別の重さがある。遼は機体の脚元にしゃがみ込み、雨に濡れたボルトに光を当てた。海老原の言葉が不意に浮かぶ。海は教科書どおりじゃない。だが同じ顔もする。ならば機械にも、夜にも、何度でも確かめるべき顔があるはずだった。 そのとき無線室から声が飛んだ。 「真鍋、来い」 駆け込むと、海老原は受信記録を机いっぱいに並べていた。途切れた信号の時刻、その直前に島の別の周波数へ混じった短い発信、港から入った目視情報。ばらばらの欠片に見えたものを、海老原は潮の流れと風の向きで一本の筋に結びつつあった。 「救難信号だけじゃない。古い携帯無線の混信が混ざってる」 「船ですか」 「いや」 海老原は首を振った。 「この出力は小さい。漁船なら弱すぎる。岸に近い」 遼は息をのんだ。沖合から来たと思っていたものが、島のすぐそばから発せられていたのかもしれない。海老原は窓の外の闇を見たまま続ける。 「見張り台の下に昔の避難小屋がある。今はほとんど使われてない。港へ出られん年寄りが、時々そこで漁具をいじる」 言い終えた声には、かすかな苦さが混じっていた。診療所に通えず、誰にも頼らず、海の近くにだけ自分の居場所を残している老人たちの姿が、遼にもぼんやり浮かんだ。 やがて消防団から連絡が入る。作業道の途中で倒木、車は先へ進めない。だが徒歩なら行けるという。港の若い衆も合流すると聞き、海老原は受話器を握る手に力を込めた。 「灯りを二つ持っていけ。波が返す」 その指示は簡潔で、迷いがなかった。受話器を置いたあと、海老原はほんの一瞬だけ肩を落とした。だがすぐに海図へ向き直る。遼はその横顔を見て、自分も持ち場へ戻った。飛ぶための備えと、飛ばずに済ませるための手立て。その両方が今夜は必要だった。 外ではまだ嵐が島を揺らしている。それでも無線室の灯りの下では、失われかけた声の輪郭が少しずつ結び直されていた。
嵐夜を継ぐ無線士
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