エラベノベル堂

嵐夜を継ぐ無線士

全年齢

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5章 / 全10

夜明けにはまだ遠いのに、島の闇は少しずつ質を変え始めていた。黒一色に見えていた窓の外に、雨の筋だけがわずかに浮かび上がる。遼は格納庫の扉の隙間から風のうなりを聞き、唇を噛んだ。数値は危険域の縁を行き来し、雨脚は弱まったかと思えばすぐ持ち直す。飛ばせると言い切るには足りず、飛ばせないと切り捨てるには現場が近すぎた。 無線室へ戻ると、海老原は濡れた紙の地図を押さえたまま動かなかった。消防団からの報告では、岩場の下に人影らしきものがある。だが波が高く、担ぎ上げるには潮の引きが足りないという。港の若い衆も回り込んでいるが、足場が悪く、下手に急げば二次被害になる。救助を急ぐほど、救う側も海に呑まれかねない夜だった。 医師が入ってきて、低い声で告げた。 「今の風では、上げても降ろせない。吊り上げも無理だ」 遼は分かっていたはずなのに、胸の内で何かが軋んだ。整備は万全だ。機体も応えるだろう。けれど空が許さない。安全を守るための準備が、そのまま出動を止める理屈になる。誰かの命が先で、自分の判断が後だと思っていた新人の甘さを、嵐は容赦なく剥いでいく。 「飛べないから終わりじゃない」 海老原が地図から目を上げずに言った。独り言のようでいて、遼へ向けた声だった。 「昔は、飛ぶものも無線も今ほどなかった。それでも戻ってきたやつはいる」 だが次の沈黙には、戻らなかった者の重みもあった。海老原は古い荷揚げ場の印に指を置いたまま、しばらく動かない。やがて小さく息を吐いた。 「俺はあの場所で、一人見失ってる」 遼は返す言葉を持てなかった。海老原の仲間を救えなかった過去は、噂でも昔話でもなく、今この夜に続いている傷なのだ。だからこそ彼は海の癖を覚え、島の細い道を忘れず、消えかけた声に執着してきたのだろう。 無線が鳴った。現場班から、岩場にいたのは近くで一人暮らしをしている老漁師らしいという。避難小屋に置いてあった古い無線機を持ち出し、胸の痛みで動けなくなっていたらしい。様子を見に行く家族もなく、嵐の前に姿が見えなくなっても、すぐには誰も異変と結びつけられなかった。 その報告は、部屋の空気をさらに重くした。ただの遭難ではなかった。島の人間なら互いを知っているはずだという思い込みの隙間で、年を取った人の暮らしが静かに孤立していた。古い通信機、途切れがちな道、天候次第の搬送。どれも前からあった弱さで、今夜それが一斉に剥き出しになったのだ。 海老原は受話器を取った。 「引き潮まで二十分だ。荷揚げ場の南から回れ。昔の滑車台が残ってる。ロープを通せば上げられる」 一度言い切ったあと、彼は自分で雨具を掴んだ。遼が顔を上げる。 「行くんですか」 「場所を知ってるのは俺だ」 その声には迷いがなかった。過去から目を背けるのではなく、そこへ戻って今の誰かを連れ帰ると決めた者の声だった。遼は無意識に一歩前へ出る。 「俺も行きます。ヘリは飛ばなくても、整備士に運べるものはあります」 海老原は一瞬だけ遼を見た。その目に、初めて確かな相棒を見るような色がよぎった。嵐の夜はまだ明けない。だが二人は、空ではなく地上から命へ届く道を選び取ろうとしていた。

5章 / 全10

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