エラベノベル堂

嵐夜を継ぐ無線士

全年齢

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6章 / 全10

雨具を頭から被ると、外の風はさっきまで窓越しに聞いていたものよりずっと生々しかった。遼は医師に止血具と保温シートの入ったバッグを渡され、ロープ束と予備灯を抱えた。飛ばない機体の影が格納庫に沈んでいる。その傍らを抜けていくたび、自分が空ではなく地面を選んだことを、遼は足裏で確かめた。 海老原は港の若い衆と合流すると、迷いなく先に立った。作業道はぬかるみ、倒木をまたぐたび枝先から冷たい雫が首筋へ落ちる。通信は途切れがちで、無線の声は風にちぎられながら届いた。見張り台を過ぎ、崩れた石段を下るころには、波の音が会話を押し潰すほど近くなる。海老原は一度だけ足を止め、暗闇の先を見た。 「あの白い泡の切れ目だ。そこに棚がある」 遼の目にはただ暴れる水しか見えない。それでも海老原の示した方向へ灯りを低く振ると、岩の黒い縁が一瞬だけ浮いた。昔の滑車台は錆びつきながらも残っていた。港の男たちがロープを通し、消防団が下へ降りる支点を作る。遼は結び目を確認し、手袋の上から力いっぱい締め直した。機体に触れるときと同じように、ひとつの甘さが事故になると体が覚えている。 やがて下から合図が来た。老漁師は意識があるが、自力では立てない。胸を押さえ、足も打っているらしい。海老原は岩場の縁へ身を乗り出し、波音に負けない声で名を呼んだ。その名の響きに、下からかすかな返事が返る。海老原の顔が強ばり、それからわずかにほどけた。知っている相手だったのだ。 「急ぐぞ、次の波が高い」 ロープが張り、下から担架代わりの布に包まれた体が上がってくる。波が引くたびにその体は岩肌へ擦れそうになり、遼は予備灯を捨てて綱へ飛びついた。腕に食い込む重みは、数字ではなく人そのものの重さだった。港の若い衆も黙って力を合わせる。誰かが滑り、誰かが支え、少しずつ命が岩場の底から引き戻されていく。 引き上げた瞬間、老漁師の持っていた古い無線機が布の隙間から転がり出た。角が欠け、海水を吸ってなお微かな灯りを残している。遼はそれを拾い上げ、胸の奥が詰まった。この夜じゅう島を走り回らせたのは、機械一つの声ではない。助けを呼ぶしかなかった一人の暮らしそのものだった。 海老原は膝をつき、老漁師の濡れた額に手を当てた。その横顔から、長年こびりついた悔恨が雨と一緒に少しずつ流れていくように見えた。 「今度は、置いていかん」 遼は保温シートを広げながら、その言葉を聞いた。ヘリは飛ばなかった。だが飛ばないことで守られた命もあり、地上でつながった手が届いた命もある。嵐の只中で露わになったのは、島の弱さだけではなかった。古びた道も、錆びた滑車台も、人の記憶も、まだ使える力として残っている。 担ぎ上げた老漁師を囲んで、誰もが荒い息を吐いた。東の雲の向こうが、ごく薄く白み始めていた。遼は泥にまみれた手で無線機を握りしめる。壊れかけた声を拾い直す仕事は、今夜一度きりで終わらない。そのことを、この島の朝が静かに告げていた。

6章 / 全10

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