「……ここだ」 蓮が灯台の管理室に入るなり、古びた机の上へ航海記録を広げた。紙は潮で少し波打っているのに、彼の指先は迷わない。翔は後ろで息を整えながら、壁際の無線機と、窓の外で白くうねる闇を交互に見た。崖を登ってきた疲労が、まだ脚に残っている。 「この記録に、灯台周辺の風向と反射の癖が残ってる。さっきの断続、方角が揺れてたのはこれだ」 「発信元、分かったんですか」 「ああ。灯台の周りに集まる。正確には、ここから逃げきれない」 蓮は短く言って、記録の端を押さえた。 翔はすぐに、抱えていた中継箱の工具袋を開いた。濡れた手袋を外し、応急用の線を選ぶ。指先は冷たいのに、頭の中だけは妙に冴えていた。 「やります」 「頼む。今は細い線でいい。繋がりさえ戻れば、向こうの輪郭が出る」 翔は壊れた箱の内部へ顔を寄せた。潮にやられた配線は脆いが、完全に死んでいるわけじゃない。腐食した端子を拭い、断たれかけた接点を一つずつ合わせる。派手な修理じゃない。けれど、今の島にはそれしかない。 「これで……」 小さな火花のような音がして、無線機の表示がわずかに揺れた。翔は息を止める。 「来た」 蓮の声が低く震えた。受信機から返る音はか細いのに、確かに人の気配を含んでいる。 「待て、もう一度……」 蓮が耳を澄ませると、途切れた信号の隙間に、かすれた呼び出しが重なった。 「これは……救難信号だ。だが、普通の出し方じゃない」 翔が顔を上げる。蓮は記録を閉じず、そのまま次のページをめくった。 「この付近で、ひとりで高齢者の世話をしてる島民がいる。家族に迷惑をかけたくなくて、通報をためらっていたらしい」 「世話を……一人で」 「そうだ。周りも薄々気づいていた。けど、あいつは昔から遠慮が強い。助けを呼ぶのを、弱さだと思い込んでたんだろう」 翔は中継箱の中で揺れる線を見つめた。救難信号は、ただの設備不良じゃなかった。壊れかけた島の道と、壊れかけた心が重なって、ようやく音になっていた。 「そんなの、呼ばなきゃ分からないじゃないですか」 「分かってても、言えないことがある。島じゃ珍しくない」 蓮の声は静かだったが、その静けさの奥に、どうしようもない痛みが滲んでいた。 翔ははっとして蓮を見る。さっきから、彼の目がどこか遠い。 「蓮さん」 「……俺も昔、同じような音を聞いたことがある」 それだけ言って、蓮は口を閉じた。詳細を続けない沈黙が、むしろ重かった。 翔は何も聞き返せず、ただ応急処置を続ける。助けを呼ぶこと自体が難しい。そんな現実が、この島にはある。見守ることと、踏み込むことの間に、薄い壁が何枚も重なっている。 「翔」 「はい」 「今のは、機械を直しただけじゃない」 蓮が振り返る。管理室の明かりに照らされた顔は、いつもの飄々とした色を失っていた。 「声を出せない誰かに、出していいんだって教えたんだ」 翔はその言葉を聞きながら、指先の油と潮の匂いを強く感じた。機械を救うことと、人を救うことが、こんなにも同じ場所にあるなんて思わなかった。 無線機が、もう一度だけ小さく鳴った。今度は、消えずに続いている。
嵐夜を継ぐ無線士
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