診療所へ戻る道は、行きよりも長く感じられた。老漁師の息は浅いながらも続いていて、そのたび遼は胸の奥で固く結んでいたものが少しだけ緩むのを感じた。見張り台から作業道へ入るころには、空は鉛色に明るみ、嵐はなお居座りながらも夜の絶対性だけを失っていた。 担架を受け取った看護師たちが診療所へ駆け込み、医師が濡れた前髪も払わず処置室へ消える。廊下に残った遼は、泥のついた手を見下ろした。機体ではなく人を引き上げた手だった。海老原はその横で古い無線機を事務長の机に置き、低い声で言った。 「これを拾えたのは運がよかっただけじゃない。島じゅうが、たまたま今夜は起きていただけだ」 事務長は疲れた顔のまま黙り込み、やがて役場にも連絡すると答えた。港の若い衆は、まだ確認が必要な家があると言い残して散っていく。奥の浜の独居の老婆、崖道の先に住む寝たきりの老人、通院をやめたままの家。嵐が一人を表へ押し出したことで、見ないふりをしてきた島の地図が別の姿で広がり始めていた。 遼は格納庫へ向かった。夜通し待機したヘリは雨粒をまとい、黙ったままそこにある。飛ばなかった判断は正しかったと、数値も風も示している。それでも彼は機体の胴に触れたまま、しばらく動けなかった。自分は飛ばすために来た。だが今夜守ったのは、飛ばないという線だった。そしてその線の外側で、人の手が命をつないだ。 背後で足音がした。海老原だった。濡れた雨具を脱ぎ、いつもの無愛想な顔に戻っている。 「機体はどうだ」 「問題ありません」 答えた遼は、一拍置いて続けた。 「でも、機体だけ問題なくても足りない夜があるんですね」 海老原は格納庫の外、まだ荒れる海のほうを見た。 「足りないものを知るのも仕事だ」 その言葉は厳しいのに、不思議と遼の胸に沈まず収まった。海老原もまた、今夜で何かをひとつ越えたのだと分かる。過去の岩場を避けずに戻り、今の命を連れ帰った。その背中には、消えない後悔がもう重荷だけではなく、誰かへ渡せる知恵として残っていた。 処置室の扉が開き、看護師が顔を出した。 「意識、戻りました」 短いその報せに、遼は深く息を吐いた。安堵の輪が廊下を静かに走る。だが同時に、これで終わりではないとも誰もが分かっていた。古い無線機一台で助かった夜を、次も繰り返せる保証はない。 朝の光は弱く、それでも確かに島を照らし始めていた。遼は工具箱の留め具を閉める。整備するのは機体だけではないのかもしれない。この島で途切れかけた道や声を、飛ぶための準備と同じ真剣さで見ていくこと。その意味が、ようやく自分の中に形を持ち始めていた。海老原は無線室へ戻りながら、振り返らずに言った。 「少し寝たら、通信記録を見直すぞ」 遼は濡れたつなぎのまま、小さく笑って答えた。 「はい。今度は、次の声が途切れる前に」
嵐夜を継ぐ無線士
全年齢小説ID: cmnepuctw000901nwrkmpvu1z
