エラベノベル堂

嵐夜を継ぐ無線士

全年齢

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9章 / 全10

夜が明けても、島はまだ嵐の芯を抱えたままだった。診療所の待合には濡れた靴の跡が幾重にも残り、港から届く連絡は救助の報告より安否確認の相談へ変わりつつあった。遼は通信記録の紙を机に並べ、海老原の向かいに座る。短く仮眠を取ったはずなのに、互いの顔には夜の続きが残っていた。 古い無線機が拾った雑音、救難信号が途切れた時刻、消防団の到着時間、潮位の変化。ばらばらの数字を追ううち、遼にも見えてくるものがあった。老漁師が助けを呼べたのは、無線機が偶然生きていたからだけではない。島の北側の古い中継線が、ふだんは使われない弱い電波を一度だけ拾い上げていたのだ。老朽化していると思っていた設備が、壊れかけながらも最後の一本として残っていた。 「これ、切れてたら届かなかったですね」 遼が言うと、海老原は記録紙の端を押さえたままうなずいた。 「逆に言えば、次は届かんかもしれん」 その一言で、部屋の空気が引き締まる。役場の職員も呼ばれ、事務長、看護師長、港の若い衆まで無線室の前に集まった。昨夜の出来事は一人の救助で終わる話ではないと、誰もがようやく同じ場所を見始めていた。 独居の高齢者の名簿はある。だが更新が遅く、実際の暮らしぶりとはずれている。通院の予定は分かっても、天候不良の日に誰が訪ねるかは決まっていない。無線機の使い方を知る者も減り、港と診療所と役場の連絡は、それぞれ別の紙に眠っていた。昨夜つながったのは奇跡ではなく、切れそうな糸を人が必死につまみ直した結果だった。 海老原は黙っていたが、やがて古い海図を広げた。島の入り江、崖道、見張り台、使われなくなった荷揚げ場。その横に遼はヘリの運航判断に必要な風の癖、着陸できないときの陸路、担架搬送に時間のかかる地点を書き込んでいく。海の記憶と空の条件が一枚の紙の上で重なった。 「飛べる日だけ考えても駄目だ」 海老原が言う。 「飛べない夜に、どこまで届くかを先に決める」 遼はその言葉を聞きながら、自分がこの島へ来た意味が少し違う形で立ち上がるのを感じた。ヘリは最後の強い手段だ。だが、それが届くまでの時間を守る仕組みがなければ、空の力も生きない。 処置室から、老漁師が家にはもう戻れんかなと笑ったという声が漏れた。冗談めいていたが、部屋にいた誰も笑わなかった。その代わり、港の若い男が口を開く。 「戻る家が危ないなら、こっちが迎えに行けるようにしよう」 看護師長が名簿を持ち寄り、役場の職員が巡回の順を決め始める。海老原は無線の予備機を洗い出し、遼は使える照明と搬送具の数を数えた。嵐はまだ窓を鳴らしていたが、島の中では別の音が生まれていた。ばらばらだった暮らしが、少しずつ連絡路を持ち始める音だった。 遼は海図の端に新しい線を一本引く。ヘリポートから診療所、港、北東の見張り台までを結ぶ線だ。海老原はそれを見て、初めてはっきり笑った。 「今度は途切れん地図になる」 嵐の夜が暴いた弱さは消えない。けれど、その弱さを知った朝にしか作れない道がある。遼はうなずき、窓の向こうの低い空を見た。まだ飛べない。それでも、この島はもう昨夜までと同じではなかった。

9章 / 全10

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