夜が明けきる前の港は、いつもより静かだった。入館証を返した胸元は軽いのに、結人の足取りだけが重い。正規の端末に触れられない以上、残された手段は人の記憶と紙の束だった。彼はまず佐伯のもとへ向かい、刈り跡から何度も立ち上がる銀緑の芽を撮り直した。佐伯は畝の前にしゃがみ込み、乾いた土を手で割ってみせる。表面は柔らかいのに、少し下で土が妙に締まり、豆の根だけが細く縮れていた。 「前はこんなふうにほどけなかった。土が土じゃなくなっていく感じだ」 結人はその言葉を記録し、次に篠崎の研究室へ向かった。篠崎は徹夜明けの白い顔で、新しい比較表を差し出した。実証農場、港の排水溝、沿岸道路脇の空き地。採取地点が違っても、根の周辺で起きる菌相の偏りは同じだった。しかも在来作物の種を同じ土にまくと、発芽はするのに伸びが止まる。 「病害じゃない分、誰もすぐに非常ベルを鳴らせない。だから広がる」 その日の午後、結人は真鍋が流してくれた会議資料の断片と、天城系列の販路計画書をつなぎ合わせた。代替作物支援枠の運用見直し案には、食料供給安定のため審査の機動化とある。だが別紙では、同じ時期に専用肥料と改良材の供給拠点を拡大し、在来作物の不安定化に備えた高機能種苗の提案強化が予定されていた。飢えへの対策と、市場の囲い込みが、まるで一枚の布の表と裏のように縫い合わされている。 結人は資料を束ね、公的監査に付随する有識者ヒアリングの場へ出す準備を整えた。だが開催前日の夜、非通知の電話が鳴った。 「あなた個人の見解で社会不安を煽るのは賢明ではありません」 低い声は穏やかで、だからこそ冷たかった。 「現場の誤認が制度を傷つければ、責任は軽くない」 通話が切れたあと、結人はしばらく窓の外を見ていた。責任という言葉が、ここでは都合のいい蓋に使われている。彼は机の上の資料を三つに分けた。現場記録、解析結果、証言集。ひとつが止められても、残りが同じ場所を指すように。 翌朝、監査の前室には省庁職員、港湾関係者、学識者が並んでいた。名札の中には見覚えのある財団名もある。結人が発言の順を待っていると、扉の向こうから別の報告が先に持ち込まれた。港湾周辺の緑地管理データ。問題の植物は、すでに空き地や法面の土壌を変え始め、雑草抑制と保水安定の効果が見られるという。危険の証拠として集められたはずの拡散記録が、都市環境整備への転用可能性として読み替えられていた。 一瞬、背筋が凍った。止めるための証拠が、新しい需要を生む材料に変わる。結人はその場でようやく、この連鎖の深さを知った。天城が売っているのは作物だけではない。痩せた畑の先に現れる土そのものの新しい使い道まで、先回りして市場にしていたのだ。 それでも彼は視線を上げた。畑が沈めば緑地に使える、ではない。食べる土と飾る土は違う。その境目を曖昧にした瞬間、社会は飢えをごまかし始める。結人は呼ばれた名を聞き、証言台へ向かった。予想外なのは結末ではない。救済策の顔をしたものが、最初から飢えに慣れる社会を設計していたことのほうだった。
検疫線上の飢作圧
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