真白は休憩を削って、店の複合機で地図を何枚も刷った。現在の道路図、十年前の住宅地図、地域資料棚から見つけた古い治水計画の図面。その上に、不審火のあった場所、返品本の購入地点、メモの見つかった本の種類を書き込んでいく。赤い印は散らばっているようで、少し離れて見ると、埋められた用水路の線に沿って並んでいた。水の通り道を見て。あの一文は比喩ではなく、もっと具体的な指さしだったのかもしれない。 ただ、線の上にあるのは火事の現場ばかりではない。空き店舗、閉めた喫茶店、立ち退きを待つ古いアパート、再開発の掲示板が立った更地。暮らしの名残と、これから別の名前に塗り替えられる場所が、細い水脈みたいにつながっていた。 その夜の相談室には、珍しく若い男が来た。二十代半ばくらいで、スーツの上着だけを腕にかけ、自己啓発書を一冊差し出した。表紙はきれいなのに、帯だけがぐしゃりと折れている。返品したいんですか、と真白が聞くと、男は笑うような顔で首を振った。 持ってると、急かされる気がして。読めば前向きになれるって、そういう本でしょう。でも、今いる部屋では、何を読んでも壁が近いんです。 どちらのお部屋ですか、と問い返しかけて、真白はやめた。男は会員証を出す手を少し迷わせたあと、住所の欄を隠すように親指を置いた。処理のあいだ、本を開くと、数ページ先に細いシャープペンの文字があった。乾く前に閉じ込められる。換気口はふさがれてる。 真白が顔を上げたときには、男はもう帰っていた。自動ドアの向こうで夜気が揺れ、姿は見えなくなる。追いかけるべきか迷ったが、紙片や書き込みを残して去る人たちは皆、追われることより、拾われることを望んでいる気がした。 翌日、店長にそれとなく古い用水路の話をすると、店長は帳場で小さく眉を寄せた。この辺は昔、水がよく通ってたらしいね、と言ってから、少し声を落とす。再開発の説明会でも、地盤や配管で揉めてるって聞いたよ。でもそれと火事を結ぶのは危ない。真白くん、ひとりで抱え込まないで。 忠告はもっともだった。それでも真白の中では、偶然より先に、人の息苦しさが積み上がっていく。急がせるからだめになる。内側は見えない。乾く前に閉じ込められる。どの言葉にも、壊す意志より、追い立てられる気配があった。 深夜四時過ぎ、地域資料棚の整理をしていたとき、常連の清掃員の女性が真白に声をかけた。最近あの相談室、前より人が来るねえ、とモップを止める。前にも似たことがあったのだろうか。真白が尋ねると、女性は少し考えてから、昔の担当の人は、返ってきた本をすぐ棚に戻さなかったよ、と言った。しばらく机に置いて、紙がしゃべるのを待つんだって。 紙がしゃべる。 その言い方が、真白には妙に腑に落ちた。相談室は規則の隙間ではなく、誰かが意図して残した耳だったのだ。 閉店のない店の朝は、いつも曖昧に明るくなる。五時前、相談室へ戻ると、机の上に見覚えのない薄い冊子が置かれていた。再開発計画の説明資料だった。客の置き忘れにしては新しすぎる。開くと中央ページにだけ、赤鉛筆で二重丸がついている。計画区域の端、川沿いの古いポンプ小屋。その余白に、今まででいちばん整った字で書かれていた。 次はそこじゃない。そこを見れば、止められる。 誰が置いたのかはわからない。だが初めて、真白は脅かされているのではなく、託されているのだと確信した。ばらばらの声は同じ夜に沈んでいる。そしてその底で、まだ燃えていない何かが、かすかな音を立てている気がした。
深夜書店 返品本相談室
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