エラベノベル堂

深夜書店 返品本相談室

全年齢

小説ID: cmnepuper000f01nwv9opbg39

4章 / 全10

真白はその冊子を制服の内ポケットに入れ、始発前の薄明るい時間に川沿いへ向かった。夜勤明けの体には眠気がまとわりついていたが、足だけは妙に軽かった。店を出ると、街は火事の噂をひそめたまま、何もなかった顔で朝を迎えようとしている。川沿いの風は冷たく、再開発区域を囲う仮設フェンスが乾いた音を立てていた。 古いポンプ小屋は、地図で見たよりずっと小さかった。コンクリートの壁は煤け、扉には立入禁止の札が曲がって下がっている。周囲には雑草と、使われなくなった配管の名残が露出していた。真白はフェンス越しに中をのぞき、足もとに不自然な黒ずみを見つけた。焼け跡というほどではない。紙か布を焦がしたような、ためらいがちな痕だった。誰かがここで火を試したのか、それとも火を起こそうとしてやめたのか。胸の奥で、ばらばらだった言葉が小さく軋み始める。 店に戻ると、開店帯の慌ただしさが押し寄せた。問い合わせ、品出し、取り寄せの確認。真白はいつも通りに動きながら、頭の中では地図と本の題名を並べ続けていた。昼前、地域資料の棚を整えていると、郷土史の増補版がまた一冊、背表紙を内側にして差し込まれているのに気づく。抜き取ると、巻頭の遊び紙に細い字があった。火をつけたいんじゃない、消える前に見てほしいだけ。文字は震えていたが、投げやりではなかった。 その一文を見た瞬間、真白の中で何かが定まった。不審火は脅しであると同時に、通報でもあるのだ。だが通報先を間違えれば、ただの犯罪にしか見えない。誰かが危険なやり方で、見過ごされる場所を指さしている。 休憩室で地図を広げていた真白に、野上が缶コーヒーを置いた。まだやってるのか、という声は呆れ半分、心配半分だった。真白は初めて、見つけたメモをいくつか見せた。野上は笑わなかった。しばらく黙ってから、ポンプ小屋の近くなら、前に配送業者が漏水で搬入口がぬかるんで困るって言ってた、と言う。雨でもないのに水が染みる場所があるらしい。再開発の工事が始まってからだと。 水の通り道。換気口はふさがれてる。乾く前に閉じ込められる。言葉は火事の予告ではなく、塞がれた流れへの訴えのように聞こえ始めた。地中の水、逃げ場のない空気、閉じ込められる古い建物。そこへ誰かの焦りが重なり、小さな火種だけが表に出る。 その夜、相談室に来たのは、以前料理本を手放した女性だった。今度は本を持っていない。扉の前で少しためらってから、真白に言った。 ここ、話したこと、誰かに届くんでしょうか。 真白はすぐには答えられなかった。規則では、届かない。けれど実際には、届いてほしい声ばかりがこの机に置かれてきた。女性は視線を落とし、川沿いの古い建物は、夜になると妙な匂いがすると小さく打ち明けた。焦げたような、湿ったような匂い。通報するほどの確信はないけれど、ずっと気になっていたのだという。 真白は頷き、机の上の伝票を脇へ寄せた。この場所は返品理由を書く場所ではなくなっていた。声になりきれないものを、次の誰かへ渡す場所に変わりつつある。そのことを、ようやく自分でも認められた気がした。 相談室の時計が午前二時を回る。店内のざわめきが薄くなり、本の気配だけが残る。真白は集めたメモを順に並べた。違う筆跡、違う年齢、違う立場。それでも、助けを求める向きだけは同じだった。ひとりではない。複数の誰かが、別々の場所から同じ夜を押し返そうとしている。そう気づいたとき、相談室の扉がごく控えめに、もう一度だけ叩かれた。

4章 / 全10

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