エラベノベル堂

深夜書店 返品本相談室

全年齢

小説ID: cmnepuper000f01nwv9opbg39

5章 / 全10

扉の向こうに立っていたのは、昼間に野上と話していた配送業者の男だった。反射材のついた上着を脱ぎかけたまま、手に薄い文庫本を持っている。入っていいですか、と聞く声が低く掠れていた。真白が椅子をすすめると、男は座らず、本を机に置いた。表紙は水濡れで波打ち、ページの端に泥が乾いてこびりついている。 搬入口の脇で拾ったんです、と男は言った。うちの誰かのじゃない。けど捨てにくくて。 真白が本を開くと、数頁ごとに違う筆跡があった。丸い字で、においがする。角ばった字で、下があたたかい。細い字で、また埋めるつもりだ。ひとりの記録ではない。まるで回覧板のように、誰かから誰かへ渡りながら書き足された痕跡だった。最後のページの余白には、油で滲んだ文字で、火を見れば人は来る。でも水は誰も見ない、とある。 真白は息を詰めた。これまでの断片が、初めて同じ方向を向いた気がした。不審火は破壊そのものが目的ではない。埋められた用水路の先で起きている異変を、誰かに見つけさせるための、あまりに危うい呼び鈴なのだ。 けれど、なぜ複数の人間がそんな形で関わるのか。真白はそれを確かめるため、休憩明けの店長を相談室に呼んだ。机いっぱいにメモと地図を広げると、店長は長く黙り込み、やがて観念したように椅子へ腰を下ろした。 その相談室ね、と店長は小さく言った。正式な業務じゃない。前の担当者が勝手に始めたんだよ。売れ残りや返品本に手紙が混じることがあるから、すぐ処分せず、一晩だけ預かる仕組みを残した。言えない人は、本になら預けられるって。 前任者は、退職前に真白へ引き継がれなかった机の引き出しまで整えていたらしい。店長が鍵を持ってきて開けると、中には古い受付ノートが何冊も収まっていた。相談内容は曖昧な表現ばかりだが、十年近く前から、川沿いの地盤沈下、湿気、異臭、立ち退きの揉め事が繰り返し記されている。そして再開発計画が出てから、記録は急に途切れていた。相談に来ていた人々が、住民だけでなく、工事関係者、清掃員、配送員、近隣の店主へと広がっていたことも、そのノートでわかった。 誰も全体を知らなかったのだ。古い用水路の上に建った建物群で、水漏れとガスのような匂いが起きていること。危険だと思っても、立ち退き問題と結びつけば大げさだと退けられること。火事のように見える小さな騒ぎだけが、ようやく人目を引いたこと。複数の声は、ひとつの嘘ではなく、ひとつの事実の欠片だった。 真白はノートとメモを時系列に並べ替え、地図の上に重ねた。最初のぼやの前に異臭、次に湿気、次に黒ずみ、そして火。見えなかった順番が、ようやく読める文章になっていく。次に起きるなら、埋設管が集中する旧用水路の曲がり角、再開発区域の仮囲い裏だ。ポンプ小屋は目印でしかなかった。 午前五時前、真白は店長と野上にうなずき、必要な連絡先を手に取った。もう紙に預けるだけでは間に合わない。それでも机の上の本たちは、最後まで静かだった。誰にも言えなかった声が、ようやくひとつの真実として、夜の外へ出ようとしていた。

5章 / 全10

TOPへ