次の客は、見覚えのある顔だった。以前、郷土史を置いていった年配の男性で、今夜は手ぶらだった。相談室の椅子に腰を下ろすまでに何度も店内を振り返り、ようやく絞り出すように言った。 あの火は、ひとりの仕業じゃない。でも、誰かが最初に始めたわけでもないんです。 真白は新しいノートを開き、言葉を急がせないように黙って待った。男性は川沿いで小さな印刷所を営んでいたが、再開発で立ち退きが決まり、今は倉庫の片づけだけで通っているらしい。湿気と異臭の相談は何度もした。工事の振動で床が沈み、古い配管の継ぎ目から変な匂いが上がるとも伝えた。しかし、立ち退きを拒むための言いがかりだと受け取られた。そこで近所の者たちが、夜に金属皿や紙くずを焦がし、煙と匂いで異変を見せようとした。誰かを傷つけるつもりではなく、見過ごされないための合図だったのだと。 けれど一度始まれば、合図は人の手を離れる。工事の作業員は住民の脅しかと思い、住民は工事側の嫌がらせだと思った。清掃員は危険を知らせたくて本に書き、配送員はぬかるみを見て別の本へ書き足した。書店に届いた声が混ざり合っていたのは、互いに相手を疑ったまま、同じ異変だけを見ていたからだった。 男性は深く頭を下げた。止めたかったんです、と低く続ける。けれど、いまさら誰に何を言っても、自分の言葉は立場で値踏みされる。本なら読まれるかもしれないと思ったのだという。前の担当者は、何も約束しない代わりに、最後まで遮らず聞いてくれたらしい。だからこの場所に、また言葉を預けに来たのだ。 真白は受付ノート、古い地図、これまでのメモを机いっぱいに広げた。そこへ店長と野上、さらに昼間に来た消防の担当者も加わる。真白は一本の線を引いた。旧用水路、沈下した地点、異臭の記録、ぼやの位置、そして本に残された文。急がせるからだめになる。内側は見えない。火を見れば人は来る。でも水は誰も見ない。どれも犯行声明ではなく、見落とされた危険を別々の立場から言い換えたものだった。 消防の担当者は地図を見つめ、やがて静かにうなずいた。誤解が重なった結果ですね、と言う声には責める響きより、ようやく輪郭をつかんだ安堵があった。追加の点検と、住民説明のやり直しが決まった。再開発側にも、立ち退き交渉とは切り離して地盤と配管の調査を求めるという。 相談室に残ったあと、真白は机の上の紙片を順に重ねた。誰かひとりの真実ではない。けれど、ばらばらのままならただの火種で終わったはずの声が、ようやく一冊の本のように綴じられつつあった。扉の外では、深夜の棚が静かに並んでいる。売るための本と、託されるための本。その境目で、自分の仕事はようやく始まるのだと、真白ははっきり感じていた。
深夜書店 返品本相談室
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