エラベノベル堂

深夜書店 返品本相談室

全年齢

小説ID: cmnepuper000f01nwv9opbg39

8章 / 全10

朝陽が非常階段の踊り場に出たとき、まだ朝の空気は冷たかった。屋上へ続く扉の向こうから、街のざわめきが遠く薄く届く。金属の手すりには夜露が残っていて、指先がひやりとした。 「……来たか」 声は、扉の脇の影から落ちた。朝陽は息をのみ、そこに立つ男を見た。年齢は四十前後だろうか。痩せた肩に、くたびれた上着。だが目だけは妙に澄んでいて、逃げる気配がない。 「尾形さん、ですか」 「よく分かったな」 「メモと、台帳の記録で」 尾形は短く笑った。笑ったというより、乾いた息を吐いただけに近い。 「その台帳を見たなら、もう隠しようがない。……いや、最初から隠し切れるものじゃなかったんだ」 朝陽は一歩だけ近づく。 「どうして、放火なんて」 「放火だと思っているなら、そうだ。けど俺にとっては、焼くためじゃなかった」 尾形の視線が、階段の錆びた段をなぞる。まるでそこに、別の時代が重なっているみたいに。 「昔、旧書店街の火事で、俺の家族は人生を失った。家も、仕事も、戻る場所もな。燃えたのは建物だけじゃない。誰かが書き換えた記録のせいで、残った側まで悪者にされた」 朝陽は喉の奥が詰まるのを感じた。 「だから、記録を探してたんですか」 「そうだ。だが相談室の奥に封じられて、誰にも読まれないまま眠っていた。紙はあるのに、声にならない。そんなの、死んだも同じだろ」 尾形の言葉には、怒りよりも疲れが滲んでいた。 「本を返す流れを使えば、誰かが気づくと思った。火事の場所を示せば、視線はそっちへ向く。乱暴なやり方だって分かってる。けど、他に手がなかった」 朝陽は拳を握りしめた。否定したい言葉はいくつも浮かんだ。危ない、間違っている、そんなやり方では何も救えない。けれど、目の前の男が抱えてきた喪失の重さを、ただの正論で押しつぶすことはできなかった。 「……分かります、とは言えません」 尾形がこちらを見る。 「でも、あなたが怒っていた理由は、分かる気がします。誰にも読まれない記録なんて、確かに残酷です」 「朝陽くん」 「でも、同じ悲劇を繰り返したら、また失われる人が増えるだけです」 朝陽は階段の下、まだ眠っている書店の気配を思い浮かべた。棚も、相談室も、本も、全部が紙の音でつながっている。その流れを焼き切るんじゃなく、つなぎ直す方法がきっとある。 「怒りを消す必要はないと思います。でも、怒りの向け先は変えられるはずです」 尾形は黙った。朝の光が非常階段の隙間から差し込み、二人の間に細い線を引く。やがて尾形は、ゆっくりと目を伏せた。 「……そんなこと、今さら考えても遅いか」 朝陽は首を振った。 「遅くないです。少なくとも、まだここにいる」 尾形の指先が、階段の手すりを一度だけ強く握る。沈黙の奥で、屋上の扉がわずかに軋んだ。朝陽はその音を聞きながら、次に何を言うべきか、静かに探し始めた。

8章 / 全10

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