指定の日が近づくにつれ、管理所の空気は妙に澄んでいった。雪は相変わらず深いのに、人の声だけが薄くなる。澪は日勤の合間に旧観測井の位置を現在の設備図に重ね、閉鎖された導水路が現行の水圧計測系統のすぐ脇を走っていたことを突き止めた。完全に切り離された設備ではない。見えない場所で、今も湖とつながっている。そう考えた瞬間、毎年の水位変動は誤差ではなく、忘れられた経路を水がかすかになぞっている痕跡に思えた。 問題は、それを裏づける記録だった。澪は沼田から渡された紙片の番号を頼りに、夜の倉庫へ入った。蛍光灯の白さの下、使われなくなった書架の裏を探ると、古い観測用紙を束ねた紐の間に、薄茶けた封筒が挟まっていた。表には日付だけがあり、ちょうど欠けていた一月の中頃を示している。中に入っていたのは数枚の手書き表と、にじんだ鉛筆の走り書きだった。 旧排水門周辺圧力上昇。封止部より漏出の疑い。下流作業班へ退避指示。再確認要。 短い文なのに、澪の喉がひりついた。雪崩ではない。設備側の異常を示す記述が、確かに残っていた。さらに最後の一枚には、途中で書く手が乱れたような文字で、上からの命令により正式報告保留、とあった。命令。その一語が、半世紀の沈黙に骨を通した。 だが翌朝、封筒は澪の机から消えた。鍵をかけていた引き出しの中だけが、きれいに空になっている。代わりに所長から内線が入った。会議室に来いという、抑揚のない声だった。 部屋には所長のほかに、本庁の監査担当と見慣れない年配の男がいた。胸章から、元技術部の顧問だと知れた。男は澪を見るなり、深い皺の間で目を伏せた。 君が何を探しているかは分かっている、と所長が言った。だが憶測で現場を混乱させるな。 憶測ではありません。記録がありました。旧排水門の漏出と退避指示の記載です。 その言葉に、年配の男の肩がわずかに揺れた。監査担当が何か言いかけたが、その前に男が低い声を落とした。 あの日、門は完全には閉じなかった。 室内の空気が凍りつく。男は机を見たまま続けた。 冬季点検を優先して水位を維持しろという判断があった。予定より圧がかかり、旧設備の継ぎ目が耐えられなかった。下の作業小屋に濁流が走った。自然災害として処理したのは、決壊ではなかったからだ。だが、だから軽かったわけじゃない。 二人、戻らなかった。 澪は息を呑んだ。ようやく届いた真実は、想像していた以上に静かな声で告げられた。その静けさがかえって重かった。 なぜ今まで黙っていたんですか。 問いに、男はかすれた笑いを漏らした。 黙っていれば、誰かが責任ごと雪の下へ埋めてくれると思った。だが埋まらなかった。毎年、あの日になると数字が揺れるたびに思い出す。水は忘れない。 窓の外では、白い湖面の下に沈んだものすべてが、見えないままそこにあった。澪は拳を握りしめた。孤立してきた時間が、ようやく一本の線になる。けれど同時に分かってしまった。この先にあるのは発見では終わらない。半世紀かけて閉ざされた扉を開けば、今ここにいる全員が、その向こうに立たされるのだと。
雪圧ダム 潜歴調査
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