翌未明、その日が来た。管理所はまだ夜の底にあり、非常灯の淡い色だけが廊下を薄く切っていた。澪は始業前に監視室へ入り、通常画面の裏で旧観測井に対応する圧力換算表を開いた。沼田が黙って隣の席に座り、言葉の代わりに紙のメモを差し出す。旧導水路の推定勾配と、封止部の位置を書き込んだものだった。四時十三分の少し前、現行の水位は静かに横ばいを保っている。だが旧観測点に重ねた計算値だけが、ごくわずかに先回りするように揺れていた。 来る。 澪がつぶやいた直後、湖面標高がまた細く沈んだ。いつもの数センチ。けれど今回は、その落ち方とまったく同じ形で、旧排水門側の圧力換算値が先に脈を打っていた。現在の観測データは遅れてついてきているだけだ。水位変動の起点は湖面ではない。閉ざされたはずの旧放流設備の内部で、毎年この時刻にだけ水が動いている。 澪は一気に端末を切り替え、過去の波形と重ねた。四十九年分の沈みが、同じ場所から始まっている。偶然ではなく、残された通路の呼吸だった。さらに旧資料の写しと、昨夜こっそり撮っておいた封筒の写真を照合すると、事故当日の圧力上昇時刻と現在の変動時刻が一致した。あの日、封止は破綻しきらず、中途半端に生き残った。だから毎年、同じ条件の日にだけ水がそこへ触れるのだ。 そのとき、背後で扉が開いた。所長と監査担当が入ってくる。誰が呼んだのかは分からない。だがもう隠す時間は終わっていた。 相沢、その画面を閉じろ。 所長の声は硬かった。澪は振り向かず、プリンタを動かした。吐き出された紙には、現在の波形、旧観測点の換算値、封筒写真の時刻、そして改ざんされた日誌の複製を並べてある。欠落していた一月の前後で、筆跡の癖と検印の位置が不自然に整いすぎていた。元の記録を抜き、後から要約したページを差し込んだ証拠だった。加えて、寺の過去帳の死亡記録と役場の転出処理の日付も一致しない。事故は自然災害だけではなく、判断ミスのあとに記録の手当てまで施されていた。 監査担当が紙を奪おうとした瞬間、沼田が前へ出た。 もうやめましょう。数字が毎年残ってる。隠したって消えない。 短い沈黙ののち、所長は紙面に目を落としたまま動かなくなった。窓の外では、夜明け前の湖が鈍く光り、見えない底で何かがようやく名前を取り戻しかけているようだった。澪は胸の奥の震えを押さえ、印刷された証拠を一枚ずつ机に広げた。ここから先は推測ではない。半世紀前の水は、今も同じ傷口をなぞりながら、真実の位置を示していた。
雪圧ダム 潜歴調査
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