美緒は縮刷版の薄い紙を閉じきれないまま、宿直室の窓へ目をやった。外はさらに吹き荒れていて、建物の脇にある除雪車車庫の方まで、白い幕が横殴りに走っている。こんな時間に頼れる相手は多くない。それでも、今は一人で抱えるには重すぎた。 彼女は索引の端に挟んでいた古い名簿を引き寄せ、震えの残る指で一人の名前を探した。村瀬慎一。退職した元主任技師。高橋が昔の設備に詳しいと言っていた男だ。美緒は数秒ためらってから、管理所の古い内線帳をめくり、外部の番号を確かめる。今さら迷っている場合じゃない。 呼び出し音が二回、三回。切れる寸前で、かすれた声が出た。 「……村瀬です」 「藤崎美緒です。夜分にすみません。半世紀前の改修について、お聞きしたいことがあります」 沈黙が落ちた。吹雪の音だけが、受話口の向こうにもこちらにも細く絡みつく。 「改修、か」 「排水系統に、無理なバイパスが組まれたって記録がありました。どういうことだったんですか」 「そんなもの、どこで」 「図面とログです。断片しかありません。でも、つながっています」 「……つながってしまったのか」 老いた声が、低く沈む。美緒は息を詰めた。 「やっぱり、事実なんですね」 「事実、だな」 村瀬はそう言ってから、長く息を吐いた。ためらいが、その一息に混じっている。 「本来なら通るはずのない流れを、急場しのぎで別の道へ逃がした。あの時は、それしかなかった」 「じゃあ、事故は」 そこまで聞いたところで、相手の気配が変わった。 「それ以上は言えん」 「村瀬さん」 「言うな。口にした瞬間に、また同じことになる」 「同じことって、何ですか」 だが返事はない。受話口の先で、何かを押し殺すような呼吸だけが続いた。 「私は、真実を知りたいだけです」 「知るな。今はまだだ」 強い口調だった。さっきまでの揺れた声が嘘みたいに、急に扉が閉まる。 「あなたが見ているものは、見えてはいけない部分まで繋がってる。だからこそ……」 言葉はそこで途切れた。 「だからこそ、何ですか」 呼びかけても、もう返らない。美緒は受話器を見つめたまま、肩の力が抜けていくのを感じた。情報は手に入った。半世紀前の改修で、排水系統に無理なバイパスが組まれた。その事実だけでも十分だ。だが肝心の事故そのものへ踏み込もうとした瞬間、村瀬はまるで自分の喉元を塞ぐみたいに黙り込んだ。 窓の外で吹雪が車庫のシャッターを叩く音が、遠い銅鑼みたいに響く。美緒は受話器を戻し、名簿の村瀬の名前を指でなぞった。 「語れない理由がある……それも、かなり深い」 独り言は白い息になって、卓上灯の前でほどける。縮刷版の断片、図面の改修痕、氷の下の脈動。そして今、村瀬の沈黙。 美緒は閉じかけた新聞をもう一度開き、そこに残る途切れた文字列を見つめた。深夜の車庫の向こうで、雪はなお激しく舞っている。まるで何かを隠すように、何度でも地面を塗り潰しながら。
雪圧ダム 潜歴調査
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