所長の指先が、机に広げられた紙の端で止まっていた。監視室には機器の低い駆動音だけが満ち、誰も次の言葉を選べずにいる。やがて、凍えた息を吐くように所長が言った。 これを外へ出せば、現場だけでは済まない。 だから黙るんですか、と澪は返した。声は思ったより静かだった。毎年同じ日に水が動く。二人が消えた記録は消され、事故は雪崩にすり替えられた。それでも数字だけは残ったんです。 監査担当は紙を見下ろしたまま、苦く眉を寄せる。年配の顧問は椅子に腰を落とし、手の甲に視線を固定していた。その横顔は、半世紀前から一歩も進めずにいる人間のものだった。 四時二十分。旧観測点の換算値がもう一度細く跳ねた。澪は画面を指す。現行の水位計が追随して数秒遅れで沈む。閉じたはずの旧導水路の先で、水がまだ通れる空間を持っている証拠だった。 封止部は死んでいない。中途半端に生きてるんです。だから条件がそろうたび、湖底の圧がそちらへ逃げる。事故の傷が、設備の中に残ってる 沼田がうなずいた。なら、記録の改ざんは過去の問題じゃないな。今の安全判断にも関わる。 その一言で、部屋の意味が変わった。隠蔽の話では終わらない。これは現在進行形の設備異常だ。所長の顔から血の気が引き、初めて管理者の目になった。 緊急点検をかける。旧系統周辺の立入を止めろ 監査担当が反射的に言う。外部報告は。 所長は即答できなかった。その沈黙の間にも、プリンタの上に残った紙がわずかに震えている。澪は携帯端末を取り出し、昨夜までに整理していた資料フォルダを開いた。封筒の写真、抜けた日誌の管理番号、寺の過去帳の写し、住民証言の録音。すべて時系列で並べてある。 私は提出します。技術本部にも、県の防災課にも。事故の記録としてだけじゃなく、現行設備の危険情報として 監査担当が顔を上げた。規程違反だ。 規程より先に、水が来ます その言葉は、自分でも驚くほど冷たく響いた。窓の外では、夜の底がわずかに青みを帯び始めている。雪に閉ざされた湖は静かなままだったが、その静けさこそが長すぎた。 顧問がようやく口を開いた。 出せ。今度は、残せ かすれた声だった。だが誰よりも重かった。所長は目を閉じ、深く息を吸う。そしてゆっくりとうなずいた。 相沢、資料をまとめろ。沼田は緊急点検の手配。私が本庁へ上げる 澪は端末の送信画面を開いた。送信先の一覧に並ぶ部署名を見つめる指先が、ほんの少し震える。半世紀かけて凍りついた扉の前に、ようやく手が届いたのだと思った。同時に、その向こうから吹き返してくるものの冷たさも分かっていた。それでも彼女は送信ボタンに触れる。 白い朝が、山の輪郭を薄く浮かび上がらせていった。
雪圧ダム 潜歴調査
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