エラベノベル堂

雪圧ダム 潜歴調査

全年齢

小説ID: cmnepuw9l000i01nwgtbk2q12

8章 / 全10

美緒は鍵束を掌にのせたまま、役場の玄関先に立ち尽くした。冷えた金属は雪よりも無口で、けれど確かな重みがあった。 「これで入れるのは、どこだろう」 「旧監視坑だろうな」 村瀬の声は低かった。大輔が息を呑む。 「本当に、そんな場所があるんですか」 「図面には残ってる。残っているだけだがな」 美緒は鍵の刻みを指でなぞった。錆びた傷のひとつが、他より深い。まるで何度も開け閉めされた扉の記憶だけが、そこに沈んでいるみたいだった。 「行きましょう」 即答すると、大輔が目を丸くする。 「もうですか」 「今さら後回しにしても、何も増えないでしょ」 村瀬は小さく笑ったが、すぐに表情を引き締めた。 「だが、気をつけろ。あそこは長いあいだ使われていない。中で何が残っているか分からん」 「残っていてほしいものも、ありますよね」 美緒が言うと、村瀬は返事をしなかった。その沈黙だけで十分だった。 三人は雪の吹き溜まりを避けながら、管理所の裏手へ回る。夕暮れはまだ残っているのに、谷の影は深く、足元の白さだけが妙に明るい。大輔が先に立ち、雪に埋もれた斜面の一角を指さした。 「たぶん、この下です。以前、点検の時に見たことがあります」 美緒がしゃがみ込むと、雪の層の下に、かすかな金属の輪郭が浮かんでいた。壁面の一部を覆う板張りは古く、ところどころが凍りついている。大輔が鍵を差し込むと、最初はびくともしなかったが、二度目で鈍い手応えが返った。 「開きます」 「よし」 扉がわずかにずれる。冷気が内側から吹き返し、三人の頬を刺した。懐中電灯を向けると、狭い坑内の壁に、古い作業札が何枚も残っていた。色あせた札には、点検日や担当名、そして慌ただしく書き換えられた注意書きが並んでいる。 「これ……当時のまま?」 大輔が声を潜める。 「いや、手が入ってるな」 村瀬が壁際を見て、短く言った。札の下には、白いモルタルが何度も塗り重ねられた痕がある。ひび割れを埋めたにしては不自然で、むしろ都合の悪い湿り気を封じようとしたみたいだった。 美緒は膝をつき、指先で表面をそっとなぞる。ざらついた塗りの奥に、まだじんわりとした冷たさが残っている。 「漏水を隠すための応急処置……?」 「そうだろうな」 村瀬の返事には、苦い響きが混じっていた。 「応急処置で済ませた、ってことですか」 「済ませたかったんだ。だが、長くはもたなかった」 奥へ進むほど、壁は湿り、足音が吸い込まれる。そこに貼られていた最後の札を美緒が照らした瞬間、三人は同時に黙った。札の片隅に、走り書きのような記録が残っていたのだ。非常停止の指示を受けた時刻、そのあとに付け足された不自然な空白、そして、実際の停止が遅れたことを示すずれ。 「……おかしい」 美緒の喉がかすれる。 「指示は出てるのに、止めてない」 大輔が顔を強張らせた。 「わざと、遅らせたんですか」 村瀬は札を見つめたまま、目を閉じた。 「そうしなきゃならん理由が、あったんだろう」 「理由、ですか」 美緒は息を呑む。事故の記録が曖昧だったのは、単なる管理の不備じゃない。誰かが、止めるべき瞬間を引き伸ばした。その遅れが、何を招いたのかはまだ書かれていない。けれど、そこに意図があったことだけは、刻み込まれた文字が雄弁に語っていた。 坑内の奥から、かすかな水の気配が響く。先日、雪の下で聞いたあの脈動とは違う、もっと近い、息を潜めるような音だった。 美緒は作業札を見上げ、静かに言った。 「ここで、何かが起きた」 誰も否定しなかった。懐中電灯の光の輪が揺れ、湿った壁に細い影を落とす。鍵束の金属音だけが、三人の沈黙のあいだで小さく鳴った。

8章 / 全10

TOPへ