エラベノベル堂

客席ごとの祝祭曲

全年齢

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3章 / 全10

六月の雨は、校舎の外を曖昧にぼかしながら、音楽室の中だけを妙にくっきりさせた。地区大会を一か月後に控え、青葉高校吹奏楽部の練習は熱を帯びていた。だが、その熱は以前のようにひとつの方向へ押し固められたものではない。篠崎のもとで積み重ねられた日々は、部員たちに、自分の音を出すことと同じくらい他人の聴こえ方を想像する癖を植えつけていた。 「今の三十八小節目、後ろだと低音が先に景色を作ってた」 チューバの久我が言うと、前列で聴いていた小野寺が首をかしげる。 「え、私はフルートが浮きすぎてると思った」 「たぶん両方あるんだよ」 澪が譜面を見ながら言った。 「前だと線が見えて、後ろだと地面が見える。だからどっちかを消すんじゃなくて、順番を整えたほうがいい」 篠崎はそのやり取りを止めず、少し離れたところで聞いていた。以前なら、正解を急いで示していたはずの部員たちが、いまは違う感想を持ち寄って一つの形を探している。その変化を、澪自身がいちばん不思議に思っていた。 放課後、自由曲を通したあとで、真壁が楽器を膝に置いたままつぶやいた。 「もし本当に、名前で点が決まるみたいなことがあるならさ。俺たちのやってること、遠回りじゃないのかな」 誰もすぐには答えなかった。噂は消えるどころか、むしろ大会が近づくにつれ輪郭を濃くしていた。県内の強豪校には今年も有名な指導者がつき、演奏順にも恵まれそうだという話まで流れている。努力が報われると信じたい気持ちと、そう思い切れない現実が、部員たちの心の中で静かにぶつかっていた。 篠崎は指揮棒を譜面台に置き、客席図ではなく、今日は何も書かれていない黒板の前に立った。 「遠回りかもしれないね」 その一言に、かえって全員の視線が集まった。 「でも、近道だけを選んだ音楽って、たぶんすぐに行き止まりになる。審査員に合わせることはできる。けれど、合わせるほど、こぼれるものもある。僕はみんなに、こぼれたほうの音を拾える演奏をしてほしい」 雨音が少し強くなる。窓の向こうで、グラウンドの白線がにじんでいた。 「実力だけでは勝てない、そう思うなら、実力の意味を広げよう。指が回ること、音程が合うこと、縦がそろうことだけが実力じゃない。違う席にいる誰かの心に、違う形で残せることも実力だ」 澪はその言葉を聞きながら、先週の校内試演会を思い出していた。保護者と先生だけの小さな客席で、演奏後に一年生の担任がこんなことを言ったのだ。真ん中では物語みたいに聞こえたのに、後ろの扉の近くでは風景を歩いているみたいだった、と。上手い下手ではない感想に、澪は妙に救われた。 その夜の合奏は、不思議なくらい静かな集中に包まれた。木管は互いの音を押しのけず、金管は鳴らし切る寸前で少しだけ待つ。打楽器は拍を刻むのではなく、空気の向きを整えるように入ってくる。澪のクラリネットの旋律は、前に出ることだけを目指さず、誰かの耳にたどり着いた先で別の音を呼び起こすことを意識していた。 曲が終わると、篠崎は小さくうなずいた。 「今のは、勝つための音に近かった」 そこで一拍置いて、穏やかに続ける。 「ただし、点を取るためじゃない。会場を変えるための音として」 雨はまだやまなかった。けれど音楽室の中には、湿った空気を押し返すような明るさがあった。不安が消えたわけではない。それでも部員たちは、疑いに背を向けるのではなく、それを抱えたまま前へ進む方法を覚え始めていた。大会で何を見られるかではなく、自分たちが何を聴かせるか。その問いが、ようやく全員の胸の中心で同じ重さになりつつあった。

3章 / 全10

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