七月に入ると、音楽室の空気は夏の匂いを帯びはじめた。譜面をめくる指先が少し汗ばみ、長い合奏のあとには床に落ちる息まで熱を持つ。それでも澪は、今年の練習には不思議な軽さがあると感じていた。苦しくないわけではない。むしろ求められていることは、例年よりずっと多い。ただ、誰か一人が正しい音を持っていて、全員がそこへ並ぶのではなく、それぞれの耳で見つけた景色を持ち寄っている。その違いが、もう怖くなくなっていた。 地区大会を前にしたホール練習の日、篠崎は客席の一番後ろから一番前までを何度も歩き、部員にも同じことをさせた。澪はクラリネットを抱えたまま二階席の端に座り、下で鳴る自由曲を聴いた。舞台の上で吹いているときには一本の線に思える旋律が、ここではいくつもの層になってゆっくり重なっていく。中央で強く感じていた木管のうねりはやわらかくほどけ、その代わり低音が大きな地面のように広がっていた。 「同じ曲なのに、別の時間みたい」 隣に来た真壁が言う。澪はうなずいた。 「だからたぶん、どこか一つだけを正解にしないほうがいいんだと思う」 真壁は少し笑い、それから真顔に戻った。 「でもさ、審査員の席はだいたい決まってるんだよな」 その言葉に、澪は返事を飲み込んだ。知っている。結局そこへ戻るのだ。会場全体に届く音を目指しても、点をつける椅子の位置は変わらない。練習が深まるほど、その現実もまたくっきりしてくる。 数日後、他校の演奏情報が入ってきた。例年上位にいる学校は、今年も手堅い選曲で、審査員受けのいい構成だという。昼休みの部室には、目に見えない曇りが降りた。杉本がスティックを机に転がしながら言った。 「観客に伝わっても、点にならなきゃ終わりだろ」 それは誰もが胸の奥で思っていたことだった。澪自身も、夜になると同じ不安に引き戻された。自分たちは音楽を広げようとしているのに、勝敗という細い門を通らなければ先へ進めない。その矛盾が、喉の奥に小さな棘のように残る。 その日の合奏の終わり、篠崎は舞台袖に見立てた扉の前に全員を集めた。 「本番では、聴く人のほうが先に僕らを値踏みするかもしれない」 静かな声だった。 「有名校か、新しい指揮者か、変わった編曲か。そういうラベルは最初に貼られる。でも、演奏が始まって十分後にもそのラベルしか残っていないなら、負けです」 篠崎はひとりひとりを見るように目を巡らせた。 「逆に、どの席にいた人の中にも、それぞれ違う場面が残ったら、その時点で僕たちはもう狭い勝負から半分抜け出している。審査に背を向けるんじゃない。もっと大きい場所で、審査を包み込むんだ」 澪はその言葉を聞きながら、胸の中で何かが静かに定まるのを感じた。勝てるかどうかは、まだ誰にもわからない。けれど、自分たちの音楽を小さく切り詰めてまで得る点数なら、きっとあとで苦しくなる。ならば不安ごと抱えて、広いまま進むしかない。 合奏を再開すると、音はこれまでよりも少しだけ遠くを向いた。目の前の譜面を越えて、まだ見ぬ客席の隅へ、知らない誰かの耳へと伸びていく。澪は息を吸い、旋律の出だしを吹いた。その一音が誰にどう届くのか、もう一つには決めないまま、それでも確かに誰かの心へ届くと信じながら。
客席ごとの祝祭曲
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