エラベノベル堂

客席ごとの祝祭曲

全年齢

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5章 / 全10

閉館時間をとうに過ぎた音楽室は、照明を落とせば机と椅子の輪郭だけがぼんやり浮かぶ。けれど悠の手元だけは、まだ昼のように白かった。床には紙テープが何本も貼られ、客席の列を模した細い道筋が、暗がりの中に浮かんでいる。 「……まだ残ってるの」 入口の向こうから、未來の声がした。続いて、楽器ケースを抱えた部員たちがひとり、またひとりと顔を出す。 「帰ったんじゃなかったんですか」 「帰る前に、気になって」 未來はそう言って、床のテープを見下ろした。 「これ、本当に座席のつもり?」 「ええ。前方、中央、後方。耳の位置を変えるための目印です」 悠は譜面台の横に立ったまま、短く答えた。 「同じ演奏でも、座る場所で印象が変わる。なら、場所の違いを先に体に入れておいたほうがいい」 「でも、こんなの貼ったって……」 「貼るだけじゃ終わりませんよ」 悠は指揮棒を軽く持ち上げた。 「今から、旋律の受け渡しと休符だけを変えます。音量はそのまま。まずは聴いてください」 最初に鳴ったのは、短い主題だった。木管が受け、すぐに金管へ渡る。次の瞬間、悠が合図を止め、ほんの少しだけ間を置く。 「……え」 後ろで、誰かが息を漏らした。 同じ旋律なのに、受け渡す位置が変わっただけで、音の重心がずれて聞こえる。さっきまで前に張りついていた響きが、今度は中央でふくらみ、後方の席を示す紙テープの上では、余韻が少し長く伸びた。 「今の、印象違う?」 悠の問いに、未來が戸惑いながらうなずく。 「……違う。というか、同じに聞こえない」 「休符もです」 悠は続けた。 「半拍長く置くだけで、次の音が待っていたように感じる。逆に詰めれば、急かしているように聞こえる」 「そんなの、ほんの少しじゃない」 「ほんの少しだから効くんです」 今度は打楽器が入る。だが、前に出るはずの場面で、あえて少し引いた位置に置かれた音が、後ろの席では不思議と先に立って聞こえた。未來は無意識に紙テープの上を一歩またいで、確かめるように振り返る。 「……座る場所で、こんなに違うの」 「はい。だから、編曲は奇策じゃない」 悠は静かに言った。 「誰か一人を驚かせるためじゃなくて、全員の音を見直すためにあります。どこで何が目立つか、どこで休みが意味を持つか。それを揃えないと、席が変わった瞬間に演奏が崩れる」 部員たちは言葉を失っていた。いつもの癖で、ただ音を重ねていたつもりだったのに、立つ位置と間の置き方だけで、景色が丸ごと変わる。見慣れた譜面が、急に別の顔をする。 未來は腕を組んだまま、しばらく床のテープを見つめていた。やがて、苦笑に近い息をこぼす。 「……あんた、変なことばっかり考えるのね」 「褒め言葉として受け取ります」 「受け取って。だって、これ、たぶん面白い」 その一言が落ちた瞬間、音楽室の空気が少しだけ軽くなった。疑っていた部員たちも、もう笑わないわけにはいかない。悠はその変化を受け止め、紙テープの端を指先で押さえた。 「明日もやります。次は、もっと細かく」 「まだ続ける気?」 「ええ。白嶺の音は、まだ見直せますから」 閉館を告げる遠い足音が、廊下の奥から近づいてくる。未來はそれを聞いて、テープの列をもう一度見た。 「……本当に、ただの奇策じゃないみたい」 悠は答えなかった。ただ、最初に鳴らした旋律の余韻が、まだ薄く部屋の隅に残っていた。

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