「そこ、もう一回だけお願いします」 白い照明が降りる客席で、悠は最前列の端に身をかがめた。舞台を見上げる角度が変わるだけで、さっきまで一つにまとまっていた和音の輪郭が、少しだけ違って聞こえる。白嶺の部員たちは譜面を抱えたまま、息をひそめて待っていた。 「前は、もう少し柔らかく」 「柔らかくって、どういうことですか」 未來が眉を寄せる。 「前方は音が近いぶん、尖りやすいんです。だから、ここでは少しだけ息を混ぜる」 「感覚で言われても」 「感覚を、耳で確かめるんです」 悠は客席をいくつか移り、中央、さらに後方へと視線を投げた。審査席の位置を思い浮かべるたび、指先の動きがわずかに変わる。テンポをほんの少しだけ詰める。すると、前列での立ち上がりが引き締まり、後方では流れがだれずに届く。何度も微調整を重ねるうち、部員たちの顔つきが変わっていった。 「……さっきより、客席ごとの差が見える」 「わかる。前だと厚いのに、後ろだと流れが見える感じ」 「つまり、審査席から逆算してるってこと?」 悠は小さくうなずく。 「そうです。審査員の位置だけを基準にすると、前で潰れる。後ろにだけ通すと、前がぼやける。だから両方を見ます」 そのときだった。 会場の通路の向こうで、星陵学院の引率教員らしき人物が、控室へ続く導線の前に立った。係員に何かを告げ、進路を塞ぐでもなく、かといって譲るでもない。必要以上に、その場の流れを握っている。 「……あの人、なんであそこにいるの」 誰かが呟いた。 「案内役じゃないよな」 「なんか、変」 未來の目が細くなる。部員たちの視線も、同じ一点へ吸い寄せられた。会場の空気は広いのに、そこだけ妙に詰まって見える。 「控室って、あっちですよね」 「ええ」 悠は答えながら、もう一度舞台を見る。 「でも、道順を握る必要はないはずです」 「つまり、わざと?」 「断定はしません」 その言い方が、逆に違和感を際立たせた。星陵学院の名が出るたび、部員たちの胸に小さな棘が刺さる。だが悠はそこで立ち止まらず、客席へ降りたまま、最後の確認を続けた。 「今のテンポで、もう一度。最前列を意識して。中央は音を受け止める。後方は響きを待つ」 息が揃う。音が立ち上がる。 試したばかりの響きは、さっきより少しだけ自然で、少しだけ鋭かった。未來は自分のパートを持つ手に力を入れたまま、ちらりと引率教員のほうを見た。 「……気になる」 「気になりますね」 悠は短く返す。 客席の片隅で、誰かの椅子が小さく鳴った。部員たちはその音にさえ敏感になっている。星陵学院の引率教員はなおも導線のそばに立ち、会場の流れを見ているようで、どこか別のものを測っているようでもあった。 悠は指を下ろさないまま、静かに言った。 「でも、今は演奏です。見えた違和感は、音で返しましょう」 未來はすぐには答えなかった。けれど次の瞬間、譜面を持つ手の角度が変わる。部員たちも、それに続いた。会場のざわめきの向こうで、白嶺の最終確認だけが、確かな輪郭を持って始まっていた。
客席ごとの祝祭曲
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