エラベノベル堂

客席ごとの祝祭曲

全年齢

小説ID: cmnepv3de000l01nwn2f6adnb

8章 / 全10

「……もう、戻れないな」 誰かのつぶやきが、舞台袖の暗がりに落ちた。大会ホールの壁の向こうでは、他校の音が遠く波みたいに揺れている。白嶺の部員たちは譜面を抱えたまま、さっき悠が書き換えた紙面を見つめていた。 悠は指揮棒を持ったまま、しばらく黙っていた。やがて、ゆっくりと息を吸う。 「戻れません。でも、戻る必要もありません」 未來が顔を上げた。 「さっきの資料、やっぱり……」 「ええ。あれだけじゃ断定はしません。けれど、複数の運営スタッフの動きと重ねると、不自然さはあります」 廊下の先で、名札をつけた係員が二人、妙に同じ方向ばかり見ている。さっきから控室への導線を行ったり来たりする手つきも、どこか落ち着かない。悠はそれを見ながら、声を少し落とした。 「審査に近い場所を、必要以上に触っている人がいる。星陵学院の準備を誰かが見逃すどころか、通りやすくしている可能性がある」 「そんなの、ずるいじゃん」 「ずるいです」 即答した悠の声に、未來が小さく息を呑む。 「でも、怒りに飲まれないでください。怒りは使えます。雑になるためじゃなく、音を強くするために」 部員たちの表情が、少しずつ変わった。悔しさで歪んでいた目が、譜面の上に戻ってくる。さっきまで震えていた指も、今は楽器のキーを確かめるように動いている。 「……あいつらに、好きにはさせない」 「うん。うちは、音で勝つ」 「見せてやる。どの席でも同じじゃないって」 ざわめきが、怒りを押し殺した熱に変わっていく。悠はその熱を逃がさないように、ひとつうなずいた。 「そうです。その気持ちを、押し込めないでください。前に出すんです」 未來が譜面を握り直す。 「朝比奈先生」 「はい」 「本当に、全部は聞こえてないの?」 舞台袖の空気が、少し止まる。悠は一瞬だけ目を伏せ、それから隠さずに答えた。 「聞こえません。左右差があります。全部を正確には拾えない」 誰かが驚いて息をのんだ。けれど、悠は続ける。 「だから、僕は一人で作らない。全員の耳を集めるんです。前で何が刺さるか、後ろで何が残るか、真ん中で何が混ざるか。僕に足りないものを、皆さんが補ってください」 「……先生」 「それでいいんです。僕の耳は不完全です。でも、不完全だからこそ、全員で音楽を作れる」 未來の喉が、かすかに鳴った。 「ずるいのは向こう、か」 「はい。なら、こちらは真っ直ぐでいましょう」 その言葉に、部員たちが一斉に息を揃える。怒りはまだ消えていない。だが、ただ焼けるだけの火ではなくなっていた。演奏に変えられる熱だ。悠は袖の向こうに見えるステージの光へ視線を向ける。 「行きます。次は、皆さんの耳で完成させてください」 誰ももう、迷った顔をしていなかった。白嶺の音が、今まさに舞台へ向かって立ち上がろうとしていた。

8章 / 全10

TOPへ