夕方の風が通路の奥から抜けてきて、乾物の香りをさらに乾いたものに変えていた。悠生は父のあとを追い、老舗の乾物店の裏手へ回る。軒先の木枠は年季が入っていて、表の賑わいからは想像できないほど、ここだけ時間が薄く積もっていた。 「すみません、少しだけお話をうかがえますか」 「また地図の子かい」 店主の祖母は、腰の曲がった小さな背をゆっくり起こした。けれど目だけは驚くほど冴えていた。悠生が古地図を差し出すと、祖母は指先で紙の端を押さえ、懐かしそうに息をついた。 「戦後はね、品物を回すだけでも大仕事だったんだよ。表に出せないやり取りは、壁や床に小さな合図を残してね。あれを見れば、誰が何を融通してくれるか分かったものさ」 「合図……」 悠生は思わず裏口の壁を見上げた。薄く塗り重ねられた木板のあちこちに、傷とも記号ともつかない筋が走っている。 「今じゃただの傷にしか見えないだろうけどね」 祖母は苦笑した。 「でも、ああいうのは消えたようで残るんだよ。人が歩く場所なら、床の癖にも出る」 その言葉に、岳がしゃがみ込んだ。巻尺が静かに伸び、古い区画線の幅を拾っていく。 「やっぱりだ」 「何かわかったの、父さん」 「古地図にある欠けた一マス。今の通路にも、同じ間が残っている」 岳の指先が、床の継ぎ目の不自然な膨らみをなぞる。 「一列の並びの中で、ここだけ妙に広い。削れたんじゃない、最初から欠けていたんだ。けど、通路としては歪みになって残っている」 祖母が目を細めた。 「そこは昔、荷を寄せるために空けた場所だったよ。見えにくいように、でも忘れないようにね」 悠生は古地図を見下ろした。丸印と丸印のあいだに、見落としていた空白がある。けれどそれは空白ではなく、誰かが意図して残した隙間だった。 「つまり、この歪みが次の印……」 「そうだろうな」 岳は立ち上がった。 「市場の地下にあるんじゃない。移り変わった店と店のあいだに、分けて置かれた手がかりだ」 祖母は裏口の向こう、閉まりかけた空を見やってから、静かに言った。 「閉店したら、路地はもっとはっきり見えるよ。急ぎなさい」 悠生は胸が高鳴るのを感じた。欠けた一マスが、ただの空白で終わらない。そこに、次の答えが眠っている。 「父さん、行こう」 「ああ。閉店後の路地だ」 二人は顔を見合わせ、乾物店の裏口を離れた。夕暮れの市場は、いつもより少し長い影を落としていた。
市場基準点異聞
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