エラベノベル堂

市場基準点異聞

全年齢

小説ID: cmnepva8x000o01nwqm43ccq3

3章 / 全10

三日目の午後、市場はいつもより少し騒がしかった。再開発の説明会が近いせいか、店先で立ち話をする人が多い。父は管理組合から借りた古写真をクリアケースに戻しながら、今日は聞き込みを優先するぞと言った。測量機材を持っていても、もう視線の先は床だけではなかった。 最初に話を聞いたのは、文房具店の奥に座る小柄な老婦人だった。若いころ、組合の書記を手伝っていたという。彼女は帳簿の欠番を見せると、懐かしそうに笑った。 あれは抜けじゃないのよ。読む順番を変えるための印。昔の人は、正面から言えないことを、並び方で言ったの 並び方で ええ。戦後は、盗まれるより先に守る工夫が要ったからね その言葉で、僕の頭の中に、ばらばらだったものが少しだけ寄った。番号、線、継ぎ目、通路の幅。どれも目立たないけれど、毎日そこにあるものばかりだ。隠すには、たしかにいちばんいい。 父は市場の図面を広げ、欠番の位置を赤で、ずれた区画を青で、継ぎ目の広い箇所を黒で記した。色の違う印が増えていくうち、不思議なことに、中央通路の東側へゆるく弧を描く流れが見えてきた。けれど、その先が途中で途切れる。 足りないな、と父がつぶやく。 何が 基準になる一点だ。これだけだと方向は見えるが、始点が定まらない そのとき、僕は青果店の前の床に目を止めた。濡れたタイルの上に、荷台の跡が何本も残っている。その線の間に、古びた真鍮の丸い標が埋まっていた。初日に見た基準点とは別の、小さな補助標らしい。まわりの継ぎ目だけが、そこを避けるようにわずかに曲がっている。 父、これ、通路の真ん中じゃない 父はすぐにしゃがみこみ、ポケットから細い巻尺を出した。標から左右の柱までを測り、図面に書き込む。中心線からほんのわずか、西へ寄っている。 おかしい。補助標なら中心に置くほうが自然だ 自然じゃないってことは、意味があるってことだよ 僕が言うと、父は顔を上げて、ほんの少しだけ笑った。家で宿題を見直すときみたいな、否定しない笑い方だった。 そこからは、二人で床ばかり見て歩いた。魚屋の前、薬屋の角、空き店舗のシャッター脇。補助標の位置と継ぎ目の広さを拾っていくと、線は途切れていなかった。見えなくなっていただけで、古写真では人の足や木箱に隠れていた場所が、今の市場にはむき出しになっている。僕は写真を拡大したコピーを持ち、父は現在図に薄く線を引く。その作業を繰り返すうち、ばらけた印は一つの形へまとまりはじめた。 矢印じゃない、と僕は言った。 文字だ。いや、文字というより、場所の呼び名かもしれん 父の鉛筆が止まる。中央通路を起点に、欠番の順を読み替え、補助標を結ぶと、古地図にだけ載っている小さな空間へ行き当たった。今は店と倉庫の境になっているが、戦後直後の図面にはそこに短く、土間蔵と記されている。 こんな場所、今の図面にはないぞ あったけど、消えたんじゃなくて、名前だけ畳まれたんだ 市場のざわめきが、急に遠く聞こえた。僕らが見ているのはただの床や線なのに、その向こうで昔の人たちが黙ってうなずき合っている気がした。父は図面を閉じるでもなく、しばらくその一点を見つめていた。仕事として報告すべきことと、まだ確信にならない予感。その間で揺れているのがわかった。 やがて父は息をつき、図面の端をきちんとそろえた。 明日、基準点の再確認名目で、あそこを詳しく見る 名目って言った 仕事だからな でも、その声はもう初日のように壁を作っていなかった。市場の床に走る古い線は、父にとっても僕にとっても、ただの調査対象ではなくなっていた。消される前に読み解くべき文章として、確かにそこに存在しはじめていた。

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