エラベノベル堂

市場基準点異聞

全年齢

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4章 / 全10

閉店の気配が消えたあと、共同井戸のまわりだけが妙に静かだった。水の気配はあるのに、桶も縄も使われた跡が薄く、夜の空気が石組みの縁に冷たく溜まっている。 「ここだよな」 悠生は古地図を胸の高さまで持ち上げ、昼から何度も見返した印の並びを思い出した。だが、ただ店を追っても繋がらない。線はもっと別の意味を持っている気がしていた。 「待て。店名で追うな」 岳が井戸脇の杭に手を添え、古い位置を確かめるように指を滑らせた。 「配置の癖がある。あの印は、店じゃなく人を示している」 「人?」 「頭文字だ。組合員の名前だろう。戦後の市場で順に動いた連中の、呼び出し方みたいなものだ」 悠生は目を瞬かせた。紙の上の丸印が、急に人の顔を持ちはじめる。 「じゃあ、あの順番は……」 「店の並び替えじゃない。誰がどの順路で集まったか、その記録だ」 岳は測量杭の古い位置を見て、短く息を吐いた。 「ほら、ここ。井戸は市場の中心じゃないが、昔は交わりの起点だったんだろう。各店に残した記号を、人名の頭文字として読む。そうすれば、組合員がたどった道筋になる」 悠生は古地図の余白にある擦れた文字を指で追った。丸印を結ぶだけでは見えなかった流れが、頭の中で少しずつ一本の線に変わっていく。 「つまり、金庫の鍵は場所そのものじゃない」 「そうだ」 「証言と記録を……つなぐための仕組み?」 岳は頷いた。 「ひとつの地点に閉じ込めるんじゃなく、複数の人が知る順番でしか開けられない。そういう設計だ」 悠生は井戸を見下ろした。暗い水面に、月明かりが細く揺れている。誰かが宝を隠したのではなく、誰かが忘れないように分けて置いた。そんな気がした。 「父さん、これ……もしかして、すごく手の込んだやり方だね」 「手の込んだ、じゃ足りないな」 岳は小さく笑った。 「市場そのものを、ひとつの記憶装置にしてある」 悠生は息をのんだ。店名ではなく人名。場所ではなく順路。今までの断片が、ようやく同じ方向を向いた気がした。 「じゃあ、次は五つの地点を……」 言いかけて、悠生は口を閉じた。まだ全部は見えていない。けれど、井戸の冷えた石に触れた指先だけが、確かな答えに近づいているようだった。

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