エラベノベル堂

市場基準点異聞

全年齢

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4章 / 全10

翌朝の市場は、開店前なのに落ち着かなかった。通路の奥で台車が鳴り、包み紙を裂く音が乾いて響く。父は管理組合に基準点の再確認を申し出て、僕はその横で古地図の端を押さえていた。名目はあくまで測量の精度確認。でも、僕らの足は自然と土間蔵と記されたあたりへ向かっていた。 そこは今では、乾物屋の倉庫と空き店舗の壁に挟まれた半端な場所だった。人ひとりが立てるほどのくぼみがあり、床には新しい灰色のタイルが継ぎ足されている。けれど、色の違いより気になったのは継ぎ目だった。ほかの区画線が通路と平行か直角で揃っているのに、そこだけ斜めの線が一本、短く差し込まれている。 父はしゃがみ込み、測量用のスタッフを当てた。数値を読み上げる声はいつも通り冷静なのに、メモを取る手だけが少し速い。 この斜線、今の基準からだと説明がつかないな 説明がつかない線、また増えたね 増えたんじゃない。最初からあったのを、こっちが読めるようになっただけだ 父はそう言ってから、自分で言葉に少し驚いたように黙った。線を読む。昨日の夜から、その言い方が父の中に残っているのだと思った。 そこへ乾物屋の主人が出てきて、床を見る僕らに目を細めた。 あんたら、そこが気になるのか 父が事情をぼかして話すと、主人は倉庫の鍵を回しながら言った。 昔、そのへんだけ水の引きが妙に悪かったんだよ。下に空きがあるんじゃないかって、親父が冗談みたいに言ってた その一言で、僕の背中が熱くなった。父は礼を言い、倉庫の敷居の高さや壁の厚みまで測りはじめた。外から見た奥行きより、内側がわずかに短い。ほんの十数センチ。でも、古地図の縮尺に直すと、ちょうど土間蔵の壁一枚分になる。 昼を過ぎるころ、父の携帯が鳴った。会社からだった。父は通路の端へ移動し、短く応答していたが、最後に工程は理解しています、と固い声で言った。戻ってきた顔には、仕事の時間が迫っている影が差していた。 今日はここまでにするぞ え 確認に必要な数字は取った。これ以上は、勝手に踏み込めない わかっていても、胸の奥が沈んだ。ここまで来て、また線が閉じてしまう気がした。父はそんな僕を見て、少しだけ困ったように視線をそらし、それから倉庫の壁際を指さした。 ただし、観察は自由だ。おまえの役目はまだある 役目、と言われて僕は壁を見た。木の幅木が古びて反り、その下に細い隙間がある。埃の筋が途中で切れていた。毎日人が触る場所ではないのに、そこだけ指先でなぞったようにきれいだ。さらに、空き店舗側のシャッター脇には、小さく欠けたタイルがあって、欠け目の向きが斜線と同じ角度を向いている。 父、これ、線の続きかもしれない 僕がノートに角度を書き写すと、父はすぐ古写真をめくった。開業記念写真の端、荷箱の陰に、今と同じ幅木が少しだけ写っている。その前に立つ人の足元に、白く細い印があった。石灰の線だ。通路の区画線から離れ、壁の中へ吸い込まれるように伸びている。 父は息をのんだ。 区画線は入口までしか示してないんじゃない。最後は壁で読む仕組みだ じゃあ、暗号はまだ終わってない ああ。むしろ、ここから先が本番だ 市場の天井の向こうで、午後の雨がまた降り出していた。ざわめきはいつもと同じなのに、倉庫と壁のあいだだけ、別の時間が薄く口を開けているようだった。再開発まで残された日は少ない。けれど僕らはようやく、隠された場所そのものではなく、そこへ至る最後の文法に触れたのだとわかった。父は図面を丁寧に畳み、仕事鞄へしまう。その仕草は測量士のままだったが、目だけは、まだ誰も開いていない扉の形を追っていた。

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