翌日の朝、アーカイブ室に入った玻璃は、いつもより早く点いた照明の白さに足を止めた。課長の机の前に数人が集まり、低い声で何かを話している。嫌な予感は、こういうとき決まって輪郭を持つ。ほどなくして課長が振り向き、硬い顔のまま告げた。商店街の南棟で昨夜小さな漏水があり、安全確認のため一部区画が封鎖される。立ち入りが制限されれば、展示に必要な追加記録はさらに難しくなる。しかも週末には都市整備課の現地確認が入るという。つまり、残された時間は今日を含めてほとんどない。 課長の指示で、室内はすぐ慌ただしくなった。被害のあった区画に何が残っているか洗い出し、優先順位を決め、記録班を組み直す。玻璃は資料棚から図面を引き出しながら、封鎖対象に喫茶店の裏通路と古い共同倉庫が含まれていることに気づいた。そこは商店街が増築を重ねた痕跡が色濃く残る場所で、展示の軸に据える予定だった部分でもある。 行きましょう、と青司が言った。もう迷いのない声だった。 先に理事長へ連絡します。許可の筋だけは通したいです 僕は必要機材をまとめます。封鎖前に入れる時間を確認しておく 言葉を交わす速さが、前より自然になっている。玻璃は受話器を取りながら、それを少しだけ心強く思った。理事長は状況を把握しており、午前中なら短時間だけ案内できると言う。ただし店主たちは神経質になっているから、説明は丁寧に頼むと念を押された。 現地へ着くと、南棟の通路には既に黄色い規制線が張られ、湿った木の匂いが漂っていた。天井近くの配管からの漏水らしく、床にはまだ薄い水の跡が残っている。青司は入口で全体を見渡しただけで、撮るべき角度と順路を決めた。玻璃は同行した理事長に頭を下げ、各店舗へ順に事情を説明して回る。いつもより店主たちの表情は固い。それでも、理事長が横で一言添えてくれるたび、閉じかけた扉が少しずつ開いた。 共同倉庫では、古びた木箱や看板の端材が雑然と積まれていた。商店街の祭りで使った提灯の骨組み、もう使われていない店名板、改装前の案内図。街が脱ぎ捨ててきた季節が、そこだけ箱の中で眠っているようだった。玻璃が一点ずつ由来を聞き取り、青司が寸法と位置を記録し、光の入り方まで押さえていく。青司は何かに触れる前、必ず店主か理事長へ視線を向けるようになっていた。その小さな間があるだけで、場の空気は驚くほど違った。 だが途中で、青果店の姉妹の妹が苛立った声を上げた。 こんなに急に来て、結局もう壊すって決まってるから形だけ記録してるんじゃないの 言葉が通路に鋭く響く。玻璃は一瞬、返答を探して喉が詰まった。否定だけでは届かない。けれど軽い慰めはもっと届かない。迷ったそのとき、隣で青司が珍しく先に口を開いた。 決まってることを、僕らは決められません。でも、残すものを雑に扱う気はないです ぶっきらぼうで、飾りもない言葉だった。けれど妹は言い返さず、姉が小さく息を吐いてから、じゃあ昔の値札箱も見ますかと倉庫の奥を指した。玻璃は胸の奥で張っていた糸が少し緩むのを感じた。青司は前へ進む速さを持っている。自分は足を止めて相手の顔を見ることができる。その両方があって、ようやく届く場所があるのかもしれない。 正午前、必要な記録を一通り終えて外へ出ると、雲の切れ間から光が差して、濡れた舗道に細く反射していた。玻璃が機材の確認をしていると、青司がメモ帳を差し出す。そこには倉庫の配置だけでなく、展示構成の案まで簡潔に書き込まれていた。物の年代順ではなく、商店街を歩く人の視線に沿って見せる構成。玻璃が以前、会議で口にした考え方だった。 これ、覚えてたんですか 使えると思ったので それだけ言って、青司は少しだけ目を細めた。無愛想なままなのに、不思議と冷たくはない。玻璃は頷き、メモ帳を大事に閉じる。問題はまだ山積みだ。それでも、ばらばらだった歯車が噛み合い始める音を、確かに聞いた気がした。
ぎこちないまま並走中
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