夕刻の南棟は、昼よりもさらに静かだった。規制線の向こうで、漏水の名残を含んだ空気がひやりと肌をなでる。理事長と課長の立ち会いのもと、共同倉庫の奥へ積まれた木箱を一つずつどかしていくと、壁板の継ぎ目に不自然な細さの隙間が現れた。青司が懐中灯を当て、課長が震える指で古い留め金を外す。湿った音とともに板がわずかに開き、長く息を潜めていた空間が、ようやく外気を受け入れた。 中は人ひとりがやっと入れるほどの狭さだった。金属棚の上に、布で包まれた箱と紙筒が整然と並んでいる。玻璃は息を殺して手袋をはめ、理事長に確認を取ってから一番手前の箱を開いた。現れたのは分厚い陳情書の束、赤字の入った改修案、店主たちの連名の手紙。壊すことではなく、生かすことを前提にした計画が確かに存在していた。街はただ古くなって消されるのではない。何度も守ろうとされた末に、置き去りにされてきたのだ。 理事長が紙の端に触れ、かすれた声で店の名前を読み上げる。その中には、もう閉じてしまった店も、亡くなった人の名もあった。課長は深く頭を下げたまま動かない。玻璃の胸にも重いものが満ちたが、隣で青司が静かに記録用カメラを構える気配に、気持ちが一本の線へ戻る。 そのとき、通路の向こうで靴音がした。振り返ると、都市整備課の職員が二人、硬い表情で立っていた。現地確認の前倒しだという。誰かがここを開けると知っていたような、迷いのない足取りだった。年配の職員は保管庫の中を見るなり、これは庁内資料だから持ち出しは認められないと告げた。 空気が凍った。課長が言い返そうとしたが、言葉はうまくつながらない。理事長の顔にも怒りと諦めが入り混じる。玻璃は喉の奥が乾くのを感じた。ここで押し切られれば、またこの資料は暗い場所へ戻される。 その一瞬、青司が前に出た。 持ち出しません。ここで記録します。手続きが必要なら僕が書きます。父の名前がこの計画に関わっていたことも、必要なら証言します 職員の一人が眉をひそめる。青司はまっすぐ相手を見たまま続けた。 隠した過去ごと街を片づけたら、残るのは都合のいい説明だけです。それを記録と呼ぶ気はありません 強い声ではなかった。だが飾りのないその言葉は、湿った壁に打ちつける灯りのように場を照らした。玻璃は迷いを捨て、すぐに端末を開く。 展示用ではなく、保存目録として登録します。所在も来歴も明記して、商店街側の確認印も取ります。今ここで始めれば、誰にもなかったことにはできません 理事長がうなずき、課長もようやく顔を上げた。短い沈黙の末、年配の職員は苦い顔のまま、正式な申請を出すことを条件に記録だけは認めた。完全な勝利ではない。けれど閉ざされる寸前の扉に、確かな楔が打たれた。 玻璃は資料を一枚ずつ並べながら、青司を見る。彼もまた視線を返し、小さくうなずいた。疑いも秘密も、ここへ来るまでに確かにあった。それでも今、彼はいちばん失いたくないものの前に立っている。だから信じられるのだと、玻璃はようやく思えた。 保管庫の狭い空間に、紙をめくる音とシャッター音が重なる。長く埋もれていた街の声が、二人のあいだを通って、少しずつ現在へ引き上げられていった。
ぎこちないまま並走中
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