エラベノベル堂

ぎこちないまま並走中

全年齢

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8章 / 全10

午前三時を過ぎると、保管庫前の空気は紙の匂いよりも、端末の熱と人の疲労で濃くなっていた。玻璃は乾いた目を瞬かせながら入力欄を埋め、青司が読み上げる資料名と年代を一つも取りこぼさないよう耳を澄ませる。課長は申請文の追記を続け、理事長は店名や差出人の記憶をたどって来歴の確認をしていた。細い糸を何本も撚り合わせるような地道な作業だったが、その一本ごとに埋もれていた時間が形を取り戻していくのがわかった。 夜明け前、青司が最後の紙筒を撮影し終えたとき、玻璃の端末に承認待ちから仮保全への表示変更が出た。続いて数件、また数件。完全な確定ではない。それでも庁内システムに登録された以上、存在自体をなかったことにはできない。課長が深く息を吐き、理事長が小さく笑った。その笑みは、安堵というよりようやく追いついた人の顔だった。 だが安らぐ間もなく、外で複数の足音が止まる。朝の封鎖班だと、誰もが察した。規制線の向こうから都市整備課の職員が入ってきて、予定どおり立ち入り禁止を告げる。年配の職員は保管庫の前に並ぶ四人と、点いたままの端末を見て眉を上げた。玻璃は一瞬だけ身構えたが、その前で青司が静かに画面を示す。 仮保全登録、反映済みです。資料名、所在、来歴、確認者も入力しました 短い沈黙のあと、職員は課長の端末で番号を照合し、苦い顔のまま言った。ここまで通っているなら、手続き上は保全対象として扱うしかない。封鎖はするが、資料の処分も移動も保留にする、と。 その言葉が落ちた瞬間、玻璃は膝から力が抜けそうになるのをこらえた。理事長が何度も頷き、課長は目を閉じて小さく頭を下げる。勝ち取ったのは派手な逆転ではなく、消されない権利だけだった。それでも十分だった。街の過去は、もう暗がりに押し戻されない。 封鎖作業が始まる前に保管庫を出ると、東の空が淡い青へほどけていた。濡れた舗道に朝の光が差し、商店街の看板の縁を静かに照らしている。眠っていた店のシャッター越しに、ここで生きてきた時間の気配がまだ確かに残っていた。 玻璃は隣に立つ青司を見た。疲れきっているはずなのに、その横顔は不思議なくらいまっすぐだった。 信じてよかったです、と玻璃が言う。 青司は少しだけ驚いたように目を向け、それから、ご迷惑をかけましたと答えた。 それ、今言いますか 今しか言えない気がして 初めて、二人は同時に笑った。ぎこちなさも、疑いの余熱もまだ完全には消えていない。それでももう、同じ場所に立って同じものを守った人同士の沈黙だった。 課長が朝の会議で正式に報告すると告げ、理事長は店主たちにも自分から説明すると言った。周囲とのこじれも、隠されてきたわだかまりも、ここから少しずつ解けていくのだろう。玻璃はそう思いながら、朝焼けの色を映す商店街を見渡した。 壊れる前に残すのではない。残したからこそ、ここから先を選び直せる。そんな感覚が胸に芽生える。 新しい一日の光の中で、玻璃と青司は並んで歩き出した。

8章 / 全10

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