陽は河川敷を離れてからも、しばらくノートの重みを腕に残したまま歩いていた。風の冷たさが夕方の薄明かりに混じり、街の輪郭を少しずつぼかしていく。図書館の裏手に回るころには、空はもう橙と群青のあいだで揺れていた。 建物の裏口は、人の出入りが少ないぶん静かだった。消えかけた案内灯の下で、陽は立ち止まり、結衣から受け取った手順を頭の中でなぞる。あの鍵、床下の箱、祖父のノート。必要なものは揃った。なのに、扉一枚を前にしただけで、足が少しだけ重い。 「最終手順、だっけ」 小さく呟いて、陽は手のひらを開いた。ノートの端に挟まれていたメモを思い出す。どこをどう合わせるか、どこで立ち止まるか。まるで一つの答えを出すためというより、決断する者の覚悟を試すための順番みたいだった。 「公開すれば、全部わかる。でも……」 言葉がそこで途切れる。わかることは、必ずしも救いじゃない。河川敷で読んだ祖父の記録が、それを何度も示していた。あの人は隠したかったのではない。守りたかったのだ。町の記憶を、むき出しのまま人に投げつければ済む話ではないのだと。 陽は閉鎖区域の扉に手を触れた。ひんやりした金属の感触が、決めろと無言で迫ってくる。 「真実を暴くことが、正しいとは限らない……か」 自分で言って、自分で少しだけ驚く。ついさっきまでの陽なら、隠されたものは全部明るみに出すべきだと考えていたはずだった。けれど今は違う。見つけた事実をそのまま晒すことより、町が明日も息をできる形で残すことのほうが、ずっと重い。 裏口の向こう、壁の向こうにある閉鎖区域を思う。そこには、町の記憶を保存した一冊の特別な帳面が眠っているという。公開するか、封印するか。その選択ひとつで、きっと誰かの怒りも、誰かの安心も変わる。 「俺が選ぶべきなのは、答えじゃない……未来か」 ようやく、その輪郭が見えた気がした。正しさを証明するための判断ではない。町のこれからをどう残すかを決めるための決断だ。陽は息を吸い、扉の前でまっすぐ背を伸ばす。 そのとき、閉ざされたはずの奥から、かすかな気配がした。誰かの足音ではない。ただ、長く眠っていたものが目を覚ましそうな、紙の擦れるような静かな気配だった。陽は手を止め、扉の向こうを見つめたまま、次に自分が何を選ぶのかを、まだ口には出さなかった。
ぎこちないまま並走中
全年齢小説ID: cmnfdcwuy003201qlvpzvwb9i
