エラベノベル堂

すこし先まで同じ歩幅

全年齢

小説ID: cmnfdd1hf003501qljrzzueop

3章 / 全10

水曜日の朝、デスクに座ると、昨日まで見慣れていたはずの机の並びが少しだけよそよそしく見えた。隣に桐島がいる。それだけで落ち着いていた頃があったのに、今は視界の端に入るたび、肩のあたりに小さな力が入る。意識しないようにすると、かえって意識してしまうのが厄介だった。 午前中は社内報用の原稿チェックを任され、私は赤字を入れながら画面に向かった。誤字脱字を拾う単純な作業なのに、集中は長く続かない。ふとした拍子に、昨日の帰り道の会話が浮かぶ。選ばないと、変に伝わることがある。その言い方は責めているわけでも、言い訳をしているわけでもなかった。だから余計に引っかかる。 十一時前、給湯室でマグカップにコーヒーを注いでいると、桐島が入ってきた。狭い空間に二人きりになると、それだけで会話の温度が難しくなる。 「資料、午後の会議までに見とくね」 「ありがとう」 それだけで十分なはずなのに、沈黙が残る。以前なら、眠そうだねとか、そのマグまた増えたとか、そんな取るに足らない話をしていた。私はカップの縁を見つめながら、思い切って口を開いた。 「この前、私が一人でも平気そうって言ったよね」 桐島は一瞬だけ動きを止めた。 「言ったね」 「別に責めたいわけじゃないんだけど、あれ、ちょっとだけ気になってた」 正直に言うと、声が思ったより静かに出た。桐島はすぐには答えず、紙コップの砂糖を指先でいじった。 「悪い意味じゃなかったよ。橘って、ちゃんと一人で立てる感じがするから」 「そう見えるんだ」 「見える、というか、そういうところ助けられてるし」 助けられてる。その言葉は嬉しいはずなのに、なぜか素直に受け取れなかった。立てることと、平気でいることは、似ているようで違う。けれど、その違いを今ここで説明するのも違う気がして、私は曖昧にうなずいた。 午後の会議は予想以上に長引いた。企画の修正点が次々に出て、終了したころには全員少し疲れた顔をしていた。席に戻ると、桐島が私の机の端にメモを置く。確認事項が簡潔にまとめられていて、字だけはいつも通り整っている。その几帳面さに少しだけほっとする自分がいて、同時に、そんな小さなことで安心してしまうことに戸惑った。 終業後、野上に誘われて一緒にエレベーターへ向かう途中、彼女が何気なく言った。 「橘って、桐島の前だとたまに黙るよね」 「そうかな」 「他の人にはもっとすぐ言い返すのに」 笑いながら言われただけなのに、その言葉は妙にまっすぐ胸に入った。言い返さないのでも、飲み込んでいるのでもなく、たぶん慎重になっているのだ。どう思われるかを考えてしまう相手にだけ、私は言葉を選ぶ。そこまで考えて、ようやく自分の気持ちの輪郭が少し見えた。 会社を出ると、雨は止んでいて、舗道に薄く夜の光が伸びていた。先を歩く桐島の背中を見つけても、今日はすぐに追いつかなかった。距離を詰めたいのか、少し置きたいのか、自分でもまだ決めきれない。ただはっきりしているのは、このすれ違いをただの気のせいにして終わらせたくないということだった。見慣れた関係の形が変わりかけている。なら目をそらさずに見たほうがいい。そう思いながら、私は少し遅れて駅への道を歩き出した。

3章 / 全10

TOPへ