エラベノベル堂

すこし先まで同じ歩幅

全年齢

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4章 / 全10

木曜日は朝から空気が重かった。低い雲のせいで窓の外がずっと薄暗く、まだ午前なのに夕方の手前みたいな色をしている。私はパソコンの画面に向かいながら、昨日決めたはずのことを反芻していた。気のせいにしない。見ないふりをしない。そう思ったのに、いざ桐島が隣の席に座ると、結局いつも通りの 「おはよう」 しか言えなかった。 「おはよう」 返ってきた声も、いつも通りだった。だから余計に、どこが変わってしまったのかを探してしまう。 午前の作業は、来週のプレゼン準備だった。私は文章の整えを担当し、桐島は数値資料の確認を進める。共有フォルダに上がったファイルに互いの修正が重なっていく。そのやりとりは滑らかで、無駄がない。仕事だけ見れば、何ひとつ問題はないのだと思い知らされる。言葉を選んでいるのに支障はなくて、支障がないからこそ、この違和感はますます私的なものに見えた。 昼前、桐島が椅子を少し引いてこちらを向いた。 「橘、ここの表現だけど、やわらかくしたほうがいいかも」 画面をのぞき込むと、私が入れた一文にカーソルが置かれている。以前なら、彼はその場でこう直したら、と自然に言ってきたはずだった。でも今日は、判断をこちらに返すみたいな言い方をする。 「そうだね。変えておく」 「うん、お願い」 短い。それだけなのに、まるで薄い手袋越しに物を受け渡ししているみたいだった。触れてはいるのに、温度が伝わらない。 昼休み、私は社員食堂に行かず、ビルの裏手にある小さな公園まで歩いた。ベンチは昨夜の雨を少し含んでいて、座るのはやめる。自販機の冷たいお茶を持ったまま立っていると、スマートフォンが震えた。野上から、午後の会議資料の確認を頼む短い連絡だった。その後ろに、追伸みたいに一文がついている。 無理しないでね その言葉に苦笑する。無理をしているつもりはなかった。でも、無理をしていない人は、たぶん同じことを何度も考えたりしない。 午後、会議が一段落したあと、コピー機の前で偶然桐島と並んだ。機械の低い駆動音だけが二人の間を埋める。私は紙の束を揃えながら、ふいに思った。今話さないと、たぶんまた先延ばしにする。 「ねえ」 桐島がこちらを見る。 「最近、私たち変じゃない」 口にした途端、心臓が一つ大きく鳴った。曖昧な言い方だと思ったが、それでも今の私には精一杯だった。 桐島はすぐに否定しなかった。コピーの排出口から紙が吐き出される音が、やけに大きく聞こえる。 「変、か」 「うん。前より、話し方が」 そこまで言うと、彼は小さく息をついた。困ったようにも、諦めたようにも見える顔だった。 「たぶん、そうだと思う」 認められて、胸の奥が少しだけ痛んだ。でも同時に、曇っていたガラスに爪で一本線を引いたみたいな手応えもあった。 「俺、距離の取り方を間違えたかもしれない」 その言葉の先を聞きたかったのに、別の部署の社員がやってきて、会話はそこで途切れた。桐島は刷り上がった資料を手に取り、 「あとで話せる?」 とだけ言って離れていく。 私はその背中を見送りながら、ようやく同じ場所に立てた気がしていた。違和感は消えていない。けれどそれは、もう名前のない霧ではない。手を伸ばせば触れられる形になりつつあった。

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