エラベノベル堂

すこし先まで同じ歩幅

全年齢

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5章 / 全10

金曜日は朝から落ち着かなかった。桐島の言った、あとで話せる、という一言がずっと頭の隅に残っていて、メールを返していても、資料の数字を見直していても、意識がそこへ引き戻される。隣の席にいる彼はいつもと同じように仕事をしていた。必要な確認をして、電話に出て、上司の頼みを引き受ける。その横顔があまりに普段通りで、昨日の会話が夢だったように思えてくる。 昼過ぎ、来週のプレゼン資料の最終確認が始まった。会議室の空気は乾いていて、プロジェクターの熱がじわりとこもる。私は自分の担当箇所を説明し、桐島が数値の補足を入れる。何度も合わせたはずの流れなのに、途中で彼がページを一枚飛ばした。 「ごめん、今の前のページ」 上司が軽く指摘すると、桐島はすぐに戻した。些細なミスだった。彼らしくない、と思ったのは私だけじゃなかったらしく、会議が終わったあと野上が小声で 「珍しいね」 とつぶやいた。 その後、営業部へ渡す修正版のデータが一部古いままだとわかり、フロアが一瞬ざわついた。致命的ではないけれど、今日中に差し替えないと先方に迷惑がかかる。私は共有フォルダを開き、桐島も無言で自席に戻って確認を始めた。だが、どの時点のファイルが正しいのか、互いの修正履歴が食い違っている。 「これ、昨日の夕方に更新したよね」 思わず強い口調になった。桐島は画面を見たまま、 「した。でも反映されてないなら、俺の確認不足」 と答える。 その静けさが、かえって私を苛立たせた。 「確認不足って、それで済む話じゃないでしょ」 周囲の視線が集まるのがわかった。けれど止まれなかった。今言っているのがファイルのことだけじゃないと、自分でもわかっていた。 「最近ずっとそうだよ。言いたいことあるのに、ないみたいな顔して、距離だけ取って」 桐島がようやく私を見た。驚いたような、でもどこか覚悟していたような目だった。 「ここで言う話じゃない」 「じゃあ、いつ言うの」 喉の奥が熱くなる。もう引き返せなかった。 「私が一人でも平気そうだから? ちゃんとしてるように見えるから? そうやって勝手に決めて、平気な顔して離れていくほうがずるい」 言い切った瞬間、フロアの音が遠のいた。桐島は数秒黙って、それから低い声で言った。 「離れたかったんじゃない」 その一言は、想像していたものと少し違った。 「近づきすぎると、今まで通りじゃいられないと思った」 私は息を止めた。桐島は苦く笑う。 「橘が一人で平気そうって言ったのも、本音半分、言い訳半分だよ。そう思えば、俺が勝手に期待しなくて済むから」 期待。その言葉が胸に落ちた途端、これまでのすれ違いがばらばらの破片ではなく、一つの線でつながった気がした。傷つけたくなくて言葉を選んでいたのではない。自分がこれ以上踏み込まないために、彼もまた距離を測っていたのだ。 誰かが気まずそうに咳払いをして、私はようやくここが職場だと思い出した。揺らいでいたのは関係だけじゃない。私たちが当たり前だと思っていた立ち位置そのものだった。

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