エラベノベル堂

すこし先まで同じ歩幅

全年齢

小説ID: cmnfdd1hf003501qljrzzueop

6章 / 全10

その日の残業は、ひどく長く感じた。古いデータの差し替えは思ったより早く片づいたのに、フロアに残った空気だけが、湿った布みたいに重かった。私は周囲に必要以上の迷惑をかけたことをわかっていたし、桐島もまた、いつもより少ない言葉で作業を終えていた。誰も露骨には触れなかったが、野上が帰り際に私の肩を軽く叩いた手つきだけが、静かな現実だった。 終業時刻を大きく過ぎてから、私は自販機の前でぬるくなった缶コーヒーを持ったまま立ち尽くしていた。ほどなくして、桐島がエレベーターのほうから歩いてくる。昼間の続きが、ようやく追いついてきたみたいだった。 「少し、話せる」 昨日と同じ言葉なのに、今度は逃げ場がなかった。私はうなずいて、ビルの裏手にある人気のない通路まで一緒に歩いた。夜風は思ったより冷たく、昼間の熱くなった頭を少しだけ静めてくれる。 「さっきは、ごめん」 先に言ったのは私だった。 「職場で言うことじゃなかった」 桐島は首を振った。 「きっかけは俺だよ。ずっと曖昧にしてた」 街灯の下で見る彼の顔は、疲れているのに妙に晴れやかだった。隠し続けることに、本人も消耗していたのかもしれない。 「橘のこと、前から特別に見てた」 言葉はまっすぐだった。取り繕う余地がないぶん、胸の奥に静かに刺さる。 「でも、今の関係を壊したくなくて、勝手に線を引いた。橘は一人でも大丈夫そうだから、俺がいなくても困らないって思い込んだほうが楽だった」 私はしばらく答えられなかった。嬉しいとか、困るとか、そういう単純な箱に入らない。ずっと感じていた違和感の正体が、ようやく名前を持ったことで、かえって足場が揺れる。 「私、たぶん」 喉が乾いて、言葉が途切れる。 「桐島にどう思われるか、ずっと気にしてた」 それは告白と呼ぶには不格好で、でも嘘ではなかった。桐島は何かを期待するような顔をせず、ただ静かに聞いていた。その沈黙に甘えて、私は続ける。 「でも、すぐに同じ形で返せるかは、わからない」 言いながら、自分で自分の臆病さを思い知る。拒絶したいわけじゃない。ただ、気持ちが追いついていない。それでも正直に言わなければ、また別の誤解が生まれる気がした。 桐島は少し目を伏せ、それから小さく笑った。 「うん。それでいい」 その答えに、救われたような、拍子抜けしたような気持ちになる。けれど次の言葉は、私の予想とは違っていた。 「実は俺、異動願い出してる」 思考が一瞬止まった。夜の音が遠のき、自販機の低い駆動音だけが妙に鮮明になる。 「来月から別の支社。今日、正式に決まった」 胸の奥で何かが遅れて落ちた。だから今日、彼はあんな顔をしていたのだ。だから、もう曖昧なままではいられなかった。 言葉が出ない私に、桐島は困ったように肩をすくめた。 「離れる前に、逃げたままにしたくなかった」 揺らいでいた関係は、ここで初めて形を変えるのだとわかった。終わりではない。でも、以前と同じ場所には戻れない。私は冷えた缶を握りしめながら、ようやく息をついた。 「ひどいタイミング」 そう言うと、桐島は少しだけ笑った。 「知ってる」 その笑いに、私もかすかに笑い返す。胸は痛いのに、不思議と視界は前より澄んでいた。

6章 / 全10

TOPへ