エラベノベル堂

すこし先まで同じ歩幅

全年齢

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7章 / 全10

夜風は細く、ビルの角を曲がるたびに温度を変えた。桐島の異動が決まっている。その事実は、さっきまで輪郭のなかった不安を、急に手で触れられる固さに変えてしまった。私は何か言わなければと思うのに、喉の奥で言葉が渋滞して、どれも形にならない。 「いつから知ってたの」 やっと出た声は、自分でも驚くほど平坦だった。 「先月の終わりくらい。まだ確定じゃなかったから、言えなかった」 「言えなかった、か」 繰り返した言葉に少し棘が混じったのを、隠しきれなかった。桐島はそれを受け止めるみたいに、視線を逸らさずに立っている。 「確定する前に言って、変に期待させたくなかった」 「期待って」 「引き止めてほしいとか、そういうの」 思わず笑いそうになった。笑える話じゃないのに、あまりに桐島らしい考え方だった。自分の気持ちを守るために距離を取って、そのうえ相手の反応まで先回りして諦める。器用なのか不器用なのか、最後までわからない。 「ずるいね」 私が言うと、桐島は少し眉を下げた。 「うん。たぶん」 認められると、責める勢いも削がれる。私は缶コーヒーを見下ろした。もうすっかりぬるいはずなのに、手のひらだけが冷たい。 本当は、異動なんてやめてほしいと叫びたかった。このまま何も変えないでほしいと、子どもみたいに言えたらどれだけ楽だろう。でも、桐島が選んだものを、その場の感情だけで掴んでしまうのは違う気がした。たぶん彼は、逃げるためだけに異動するわけじゃない。仕事のことも、先のことも考えて決めたはずだ。そのうえで、私たちのことを曖昧にしたまま行きたくなかったのだ。 「私ね」 ゆっくり息を吸う。 「今日、桐島が別のところに行くって聞いて、すごく嫌だった」 彼の目がわずかに揺れた。 「それが答えになるほど綺麗かはわからない。でも、平気ではないよ。全然」 言い終えた瞬間、胸の奥に張っていた糸が少しだけ緩んだ。好きだと言い切るにはまだ怖い。でも、失いたくないと思う気持ちだけは、もうごまかせなかった。 桐島は何か言いかけて、やめた。それから小さく息を吐いて、 「そっか」 とだけ言った。その二文字が、下手な慰めよりずっとまっすぐに届く。 遠くでエレベーターの到着音が鳴る。残業の名残みたいな明かりが、ビルの窓にまだらに残っていた。今ここで何かが決着するわけではない。異動は変わらないし、私の気持ちも完成していない。ただ、もう互いに勝手な解釈だけで距離を測る場所には戻れないのだと思った。 「来月まで、まだ少しあるね」 私が言うと、桐島は静かにうなずいた。 「あるね」 その短い返事の中に、終わりではなく猶予の響きがあった。揺らいだ関係は、壊れたわけじゃない。むしろ初めて、壊れるかもしれない前提ごと抱えて立っている。夜の空気は冷たいのに、不思議と目の前だけは少し明るく見えた。

7章 / 全10

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