エラベノベル堂

すこし先まで同じ歩幅

全年齢

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8章 / 全10

週が明けた月曜日、オフィスは何事もなかったように動いていた。電話が鳴り、キーボードの音が重なり、給湯室からはコーヒーの匂いが漂ってくる。私もいつも通りパソコンを立ち上げたけれど、いつも通りという言葉の中身だけが、前の週とはもう違っていた。 隣で桐島が 「おはよう」 と言う。 私は少しだけ間を置いて、 「おはよう」 と返した。 それだけで、胸の内側が小さく波立つ。ぎこちなさは消えていない。けれど、変に取り繕う薄い膜も、もう前ほど強くはなかった。 午前中、私は来月の案件整理をしていた。異動に伴う引き継ぎの一覧が共有フォルダに上がっていて、その中に桐島の名前がある。文字として見ると、先週聞いた話が急に現実味を帯びた。どの取引先を誰に振るか、どの資料を更新するか。実務の形を取った別れの準備は、感情よりずっと手際よく進んでいく。 昼前、上司に呼ばれて会議室へ入ると、来月の体制について簡単な説明があった。桐島の異動先、後任、私の担当変更。その中で、上司が何気なく言った。 「橘には本社の新規プロジェクトに入ってもらう予定だったけど、先方との連携を考えて、しばらく関西支社と行き来してもらうかもしれない」 私は思わず顔を上げた。関西支社。それは桐島の異動先と同じ場所だった。 会議が終わって廊下に出ると、桐島が少し驚いたようにこちらを見た。 「今の、初耳?」 「うん。そっちは知ってたの」 「いや、俺も今初めて聞いた」 二人で立ち止まったまま、しばらく何も言えなかった。離れて終わるものだと思っていた関係に、別の線が引かれた気がしたからだ。きっぱり切れるはずだった糸が、思いがけない場所でまだ続いている。 夕方、資料の確認を終えたあと、桐島が私の机の端を軽く叩いた。 「少し歩く?」 私は黙って立ち上がった。 向かったのは、初夏の風が抜けるビル裏の通路だった。先週と同じ場所なのに、景色の見え方が違う。桐島は自販機の明かりを背にして、少し笑う。 「最後はちゃんと離れる話になると思ってた」 「私も」 「うまくいかないね」 その言い方がおかしくて、私はようやく自然に笑えた。 「でも」 と私は言う。 「前みたいに、勝手に決めるのはやめよう」 桐島は静かにうなずいた。 「うん。橘が平気そうだからって、俺が諦めるのも」 「私が察してほしいまま黙るのも」 風が二人の間を通り抜ける。冷たくはないのに、妙に輪郭のはっきりした風だった。 「来月から、遠くなると思ってたけど」 桐島が言う。 「もしかしたら、今までよりちゃんと向き合わされるのかも」 私はその言葉をゆっくり飲み込んだ。恋人になる、ならない、そういう答えはまだ出ていない。けれど、曖昧なまま守ってきた関係が揺らいだ先にあったのは、完全な別れではなく、逃げ道のない続きだった。 「じゃあ」 と私は言う。 「今度は途中で黙らないで」 「努力する」 「努力じゃなくて、ちゃんと」 桐島は少しだけ目を細めた。 「わかった。ちゃんと話す」 その返事に、胸の奥の不安がすべて消えたわけじゃない。ただ、以前とは少し違う。崩れかけた場所を見たあとで、もう一度選び直すみたいな確かさがあった。関係は元に戻らない。その代わり、前よりも正直な形で続いていく。 夕暮れの空は薄く青く、ビルの隙間に細く伸びていた。終わるはずだったはずの時間が、まだ先へ続いている。そのことに戸惑いながら、私はもうそれを悪くないと思っていた。

8章 / 全10

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