浩平は、結局その皿を流しのそばに置いたまま、朝からずっと落ち着かなかった。処分しようとしても、ごみ袋の中から押し返される感触が、指先にまだ残っている。昼を過ぎても食欲は戻らず、喉の奥に薄い甘さだけが居座っていた。 「顔、死んでるよ」 カフェに入るなり、澪はテーブル越しに浩平を見た。明るい窓際の席なのに、彼女の目だけが妙に真面目だ。 「相談したいことがあるって、珍しいじゃん」 「……笑わないで聞いてくれるか」 「内容による」 浩平は息をつき、昨夜から今朝にかけて起きたことを、なるべく順番どおりに話した。皿の上で震えたこと。床へ跳ねたこと。朝には三切れに増えていたこと。ごみ袋の中から、別の一切れが押し返してきたこと。 話し終えるころには、澪の指がカップの縁で止まっていた。 「それ、たぶんただの食べ物じゃない」 「やっぱり、そう聞こえるよな」 「聞こえるっていうか」 澪は言いにくそうに視線を落とした。 「古い噂があるの。食べた人の罪悪感が強いほど、形を持って追いかけてくるっていう」 浩平は反射的に笑いそうになって、やめた。 「罪悪感で、卵焼きが追いかけてくる?」 「馬鹿みたいでしょ。でも、そういう話は昔からある。きれいに焼けたものほど、隠したい気持ちを映すって」 「……映す」 その言葉が、妙に胸に引っかかった。 澪は今度はもっと低い声で続ける。 「食べた側が見ないふりをしたものを、じわじわ返してくるって。だから、逃げるほど増える。目を逸らすほど、輪郭が濃くなる」 浩平の背中に、朝から続いていた冷たいものがまた這い上がる。 「俺、そんなにひどいことした覚えは……」 言いかけて、口が止まった。 ひどいこと。そんな言い方で済むだろうか。昔の台所。割れた皿。誰かの泣き声。そこまではっきりしないのに、胸の奥だけが妙にざわつく。思い出そうとすると、薄い膜が何枚も重なって、核心を隠してしまう。 「何か、あるんだね」 澪が静かに言った。 浩平は答えられない。カップの中の琥珀色が、かすかに揺れて見えた。まるで、そこにもあの黄色が紛れているみたいで。 「……俺、何を見落としてたんだろう」 澪は何も言わず、ただ窓の外に目をやった。その横顔がいつもより硬い。浩平は初めて、あの卵焼きが台所の中だけの出来事ではなく、もっと昔から自分の中に潜んでいたのではないかと思い始めた。
卵焼き迫る、継ぎ味の夜
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