噂は三日で町の隅々まで染みた。みなと屋の前を通る子どもは面白半分に厨房をのぞき込み、常連客は冗談めかして卵料理を避けた。けれど笑い話の顔をしていても、誰もがどこか落ち着かない。夕方になると商店街の戸締まりは早くなり、蛍光灯の白さまで神経質に見えた。伊織は注文を受けながら、皿の上の黄色いものすべてに目を奪われる自分をどうにもできなかった。 真帆は仕事帰りのたびに店へ寄り、二階の物置から見つけたレシピ帳を少しずつ読み進めた。祖母の覚え書きは料理の分量だけでなく、その日の客の様子まで書き添えられていた。塩気が足りないとこぼした漁師のこと、出征前の息子に弁当を持たせた母親のこと、黙ってうどんをすすった夫婦のこと。食堂は腹を満たすだけの場所ではなかったのだと、伊織はその細い文字を追うたびに思い知らされた。 問題の頁の後ろには、さらに短い一文があった。映した心は、味で返せ。言葉で追えば散り、手で整えれば鎮まる。 「味で返せって、どういう意味だろうね」 真帆がカウンターで頬杖をつく。 「祖母ならわかったのかな」 答えた声は、自分でも驚くほど弱かった。 その晩、二人は町で噂の出た場所を回った。惣菜屋では、売れ残りの卵焼きが閉店後に冷蔵ケースの内側で寄り集まっていたという。神社の向かいの家では、弁当箱の卵焼きだけが端に片寄っていたらしい。どれも大きな害はない。ただ、見た者の胸の奥をざらつかせるように近づいてくる。共通していたのは、皆が口をそろえて、見ていると嫌なことを思い出したと言うことだった。 みなと屋に戻ると、店内はしんと静まり返っていた。戸を閉めたはずなのに、どこかから潮の匂いに似た湿った風が入り込んでいる。伊織は厨房に立ち、試しに卵を割った。殻の割れる音だけが妙に大きい。溶いた卵に砂糖を落とし、醤油をひとたらしする。その手順は何度も見てきたのに、祖母の背中を思い出そうとするほど指先が鈍くなった。 焼き上がった卵焼きを皿にのせる。湯気が細く立ちのぼり、甘い匂いが静かに広がった。次の瞬間、皿の縁がちり、と鳴った。卵焼きが、今度はさっきよりはっきりと伊織の方へ向きを変える。 喉が乾く。逃げたいのに足が床に貼りついたようだった。真帆が隣でレシピ帳を開き、低い声で言う。 「目をそらさないで。たぶん、これ、あんたが隠してることを待ってる」 隠していること。そんな言葉を向けられた途端、胸の底に沈めていた記憶が浮かんだ。祖母が倒れる前の晩、伊織は卵焼きの火加減を教わる約束を、友人との約束を優先して先延ばしにした。その次の機会は来なかった。継ぐと言った言葉の半分は、祖母を安心させるための見栄だった。その事実を、伊織は今まで誰にも言えずにいた。 皿がもう一度鳴る。卵焼きは責めるようでもなく、ただ静かに近づいてくる。その動きがかえって残酷だった。真帆の手が、震える伊織の袖をそっとつかむ。 「まだ手がかりはある。祖母さん、たぶん終わらせ方まで残してる」 伊織はうなずいた。恐怖は消えなかったが、ただ逃げるだけではだめだということだけははっきりしていた。黄色い小さな塊は怪異の顔を借りて、みなと屋の奥に眠る未練へ、ゆっくりと道をつけ始めていた。
卵焼き迫る、継ぎ味の夜
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