エラベノベル堂

卵焼き迫る、継ぎ味の夜

全年齢

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4章 / 全10

雨は夕方から降り始め、夜には店の庇を叩く音が絶え間なく続いていた。みなと屋のガラス戸は水の膜で曇り、商店街の明かりも滲んで見える。真帆はレシピ帳を乾いた布で包み直し、伊織は厨房の流しにもたれて深く息を吐いた。町を回って集めた話は、どれも似ているのに決定打がなかった。ただ一つ、卵焼きが人を襲うのではなく、心の沈んだところへ寄っていくという輪郭だけが、少しずつ現れてきていた。だが、それがわかったところで、止め方はまだ曖昧なままだった。 「祖母さん、こんなものまで料理にしたのかな」 真帆の言葉に、伊織は苦く笑いかけて、すぐに表情を消した。祖母なら、きっと怪異と呼ばれる前に、誰かの腹と心を落ち着かせる方法にしてしまったのだろう。そう思うほど、自分が遠く及ばないことを思い知らされる。 レシピ帳の最後の方に、細い付箋の挟まった頁があった。祖母の字で、味は手の迷いを知る、とだけ書かれている。その下には、卵を混ぜすぎるな、甘さを怖がるな、火を急かすな、と短い言葉が並んでいた。料理の注意書きのようでいて、どれも伊織の胸にそのまま刺さった。迷い、怖れ、焦り。今の自分を見透かされているようだった。 そのとき、停電でもないのに厨房の灯りが一度だけ明滅した。二人は同時に顔を上げる。次いで、調理台の上でかすかな音が鳴った。昼の賄い用に巻いておいた卵焼きが、並んだ皿の上でわずかに身じろぎしている。ひとつではない。端から端まで、黄色い列が、雨音に合わせるみたいに細く震えていた。 「来るよ」 真帆が囁いた直後、皿と皿が触れ合う乾いた音が続いた。卵焼きたちは崩れもせず、ただ意思を持った影のように、伊織のいる方へ少しずつ向きをそろえていく。甘い匂いが急に濃くなった。懐かしいはずの香りなのに、胸の奥の古傷だけを温めるようで息が詰まる。 伊織の脳裏に、祖母の背中が浮かんだ。丸い肩、手際のいい菜箸、振り向かずに飛んでくる指示。あの晩、また今度でいいだろうと軽く考えた自分の声まで、雨に混じって蘇る。あのとき少し面倒がらずにいれば。あのときちゃんと隣に立っていれば。卵焼きはその悔いを嗅ぎつけた獣のようではなく、見逃さない鏡のように寄ってきた。 「味で返すしかない」 自分でも驚くほどかすれた声が出た。真帆はうなずき、コンロの前を空ける。逃げ場の少ない厨房で、皿の鳴る音はじわじわ増えていく。けれど伊織は、初めてそれを恐怖だけで見なかった。追われているのではない。向き合う場所まで押し戻されているのだ。 卵を冷蔵庫から取り出し、掌に重みを受ける。その殻の温度が、不思議と心を現実へつなぎ止めた。祖母の味にはまだ届かない。それでも、今の自分の手で作るしかない。伊織がボウルを置くと、背後で無数の皿がいっせいに小さく鳴った。まるで、それを待っていたように。嵐はさらに強まり、みなと屋の夜は、いよいよ逃げきれないところまで来ていた。

4章 / 全10

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