エラベノベル堂

卵焼き迫る、継ぎ味の夜

全年齢

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5章 / 全10

ボウルに卵を割り入れる音が、妙に澄んで響いた。ひとつ、ふたつ、みっつ。殻の欠片が落ちないよう指先で確かめながら、伊織は浅く息を吸う。背後では皿の擦れる音が絶えず続いていた。振り向かなくてもわかる。厨房中の卵焼きが、じりじりと自分へ距離を詰めている。 真帆が小さく言った。 「伊織、混ぜるの、ゆっくり」 その声に、祖母の口調が重なった気がした。混ぜすぎるな。空気を食わせるな。卵をいじめるな。昔は意味もわからず聞き流した言葉が、今夜に限ってひとつずつ手の中へ戻ってくる。菜箸を動かすと、黄身と白身がまだらにほどけ、艶のある黄金色になった。 甘さを怖がるな。 レシピ帳の文字を思い出し、砂糖を入れる。怖かったのは甘さではない。祖母の味に届かないと認めることだ。継ぐと言ったくせに、肝心なところで学ぶことから逃げた自分だ。伊織は醤油を垂らし、出汁を合わせた。手が震え、少しだけ縁からこぼれる。 その瞬間、背後の音が強くなった。 皿が次々と鳴り、調理台の端から端まで黄色い影が滑る。真帆が息を呑む気配がした。 「すごい数……」 伊織は振り返った。そこには昼の賄いの残りだけではなく、空だったはずの皿の上にまで卵焼きが現れていた。小さなもの、いびつなもの、形の整ったもの。どれも祖母が巻いた記憶の断片みたいに見えた。それらがいっせいに伊織を向いている。責める顔ではない。ただ、待っている。 胸の奥が痛んだ。 祖母が倒れる前の夜、店の裏口で電話を握りしめながら、伊織は友人との約束を優先した。明日でいい。また今度でいい。そう思った。その明日が来なかったことを、誰のせいにもできずに半年を過ごしてきた。祖母の死より先に、自分の逃げた足音ばかりが耳に残っていたのだ。 「ごめん」 言葉は卵焼きに向けたのか、祖母に向けたのか、自分でもわからなかった。だが口にした途端、ひどく重かった胸の芯がわずかに緩んだ。 伊織はフライパンを火にかけた。油をひき、温まりを待つ。火を急かすな。祖母の声がまた蘇る。弱すぎず、強すぎず。卵液を一度流し入れると、表面が静かにふくらみ、甘い香りが立った。雨音も、皿の音も、遠くなる。ただ巻くことだけに神経を集める。端を持ち上げ、折る。まだ拙い。形は少し曲がる。それでも手は止めない。 何度か卵液を重ねるうち、不思議と恐怖は薄れていった。背後の卵焼きたちも、追い立てるような気配を失い、しんと見守っている。伊織は初めて、祖母の味を完全に写すのではなく、自分の手の温度で作るのだと思えた。未熟でも、遅くても、今ここで向き合うしかない。 最後のひと巻きを整え、火を止める。巻きすで形を落ち着かせ、そっと切り分ける。断面は完璧ではない。けれど中心に残るやわらかな層が、どこか懐かしく見えた。 皿に盛った瞬間、厨房に満ちていた無数の気配が、ふっと息を吐くように揺れた。並んでいた卵焼きたちは、それ以上近づかなかった。まるで長い間つかえていたものが、ようやくあるべき場所へ戻っていくように、静かに、その場で動きを止めていく。 真帆が震える声で言う。 「これ……怪物じゃなかったんだね」 伊織は頷いた。怪物ではない。祖母が店に残した味の記憶と、自分が置き去りにしてきた後悔が、形を持っていただけだ。嵐の外音はまだ強いのに、厨房の中だけが不思議なほど穏やかだった。

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