エラベノベル堂

卵焼き迫る、継ぎ味の夜

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5章 / 全10

澪と別れて帰ったあとも、浩平の頭の奥では資料室の紙の匂いが消えなかった。鍵を回して部屋に入った瞬間、夜の静けさがやけに厚く感じる。電気をつけても、さっきまでの不安は薄まらなかった。 「……気のせいじゃないよな」 誰に向けたのでもない声が、狭い室内に落ちる。だが返ってきたのは、窓を閉めているはずなのに漂う、あの甘くて焦げた匂いだった。鼻の奥に触れた途端、胃のあたりがきゅっと縮む。 浩平は振り向いた。押し入れの襖が、わずかにずれている。 「開けてない」 わかっているのに、そう口にしてしまう。近づくたび、匂いは濃くなる。指先で襖を引くと、暗がりの隙間に黄色いものが見えた。一切れ、また一切れ。どれも同じ卵焼きなのに、わずかに焼き色が違う。 「やめろ……」 声が震えた。押し入れの奥から、しゅるりと布をすべるみたいな音がする。次の瞬間、一切れが床へ落ちた。ぽとり、という軽い音。だがその軽さが、かえって現実を重くした。 浩平は後ずさりする。なのに足元は逃げ場を見つけられない。床に落ちた卵焼きは、動かない。けれど、動かないまま、そこにあるだけで圧がある。 「見つけたぞ、って言いたいのかよ」 苦し紛れに吐き捨てると、返事の代わりに、また押し入れの奥で何かが擦れた。 浩平は眠ろうとしても眠れなかった。布団に入って目を閉じるたび、同じ夢が始まる。幼い自分が、低い台所の光の中に立っている。フライパンの音。誰かの手。熱い匂い。次の瞬間、何かが倒れて、白い皿が床へ滑る。 夢はいつも、そこまでだった。 だが今夜は違った。 同じ角度で切り取られた場面が繰り返される。倒れた皿。伸ばしかけた手。見上げた誰かの顔が、光に溶けていく。そのたびに、胸の奥に引っかかっていた膜が、少しずつ剥がれていく。 「……あれは」 声にならない。けれど、記憶の隙間に風が吹き込むみたいに、断片だけが戻ってくる。割れた音。慌てて目を逸らした自分。泣き声を聞いたのに、振り返らなかった背中。 浩平は布団の中で息を詰めた。 見ないふりをした。たしかに、そうだった。 夢の中の台所が、また同じ角度で揺れる。逃げるように視線を外した幼い自分と、床に散った黄色。あのとき閉じたままの記憶の扉が、少しだけ開いてしまう。 押し入れの隙間から漂う焼きたての匂いは、まだ消えない。浩平は目を閉じたまま、胸の奥で何かが確かに埋まり始めるのを感じていた。

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