浩平は眠れないまま、部屋の中の甘い匂いに喉を焼かれていた。もう布団の中にいても逃げ場がない。押し入れの隙間からは、相変わらず小さな気配が擦れるように漏れてくる。 「……出る」 独り言が、やけに大きく聞こえた。浩平は立ち上がり、玄関へ向かう。鍵を確かめ、チェーンも見た。どちらも閉まっている。それでも背中に張りつく視線は消えない。 ドアを開けた瞬間、廊下の冷たい空気が流れ込んだ。たったそれだけで、胸の奥の圧迫が少しだけ薄れる。だが次の瞬間、足元でぺたり、と湿った音がした。 「……またかよ」 見下ろすと、卵焼きが一切れ、廊下の床に落ちている。いつの間にそこまで来たのか分からない。黄色い表面は蛍光灯の光をぼんやり返し、逃げ道を知っているみたいに、するすると滑り出した。 浩平が一歩引くと、その一切れは追うように前へ進む。さらに、その先から別の一切れが現れた。床を這う音はない。なのに、取り残された感覚だけが、はっきりと背中に響く。 「来るな……!」 叫んだ浩平の前で、卵焼きはドアの前へ集まり始めた。まるで小さな壁だった。部屋へ戻ろうとしても、足の置き場がない。自分の部屋の扉が、黄色い沈黙に塞がれていく。 「ふざけるな、どけよ」 蹴ろうとした足が止まる。卵焼きの端が、わずかに揺れた気がした。その気配だけで、浩平は胸の奥が冷えるのを感じる。追い詰められているのは自分だ。卵焼きはただ、そこに在るだけなのに。 そのとき、階段を駆け上がる足音が響いた。 「浩平!」 澪の声だった。息を切らした彼女が角から現れ、廊下の明かりの下で目を見開く。 「遅くなって、ごめん。すぐ来るつもりだったんだけど」 「澪、来るな。これ、廊下に――」 言い終える前に、澪の靴先の前へ、ぽとりと一切れ落ちた。 二人とも、同時に息を止める。 澪は視線を落とし、浩平はその横顔を見た。たった一歩の距離なのに、そこに線が引かれたみたいだった。落ちた一切れは、浩平側へも澪側へも寄らない。ただ静かに、境目を示す印のように床に居座っている。 「……下がって」 澪が低く言った。 「これ、分けてる」 「分けてるって、何をだよ」 「私たちを」 浩平は言葉を失った。廊下の先は暗く、部屋の扉の前は黄色い壁に塞がれている。戻れない。近づけない。澪との間にも、見えない境界ができてしまった。 その境目の上で、卵焼きが、もう一切れだけ静かに身を起こした。
卵焼き迫る、継ぎ味の夜
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