次の瞬間、店を揺らすような雷鳴が落ち、みなと屋の灯りがまとめて消えた。厨房は雨の夜気と、わずかに差し込む稲光だけの世界になる。真帆が短く息をのむ。伊織の前には、切り分けたばかりの卵焼き。その向こう、暗闇の中で、皿が擦れる音だけが生き物みたいに増えていった。 白い稲光が走るたび、調理台の上が見える。皿、皿、皿。そのどれにも黄色い塊が載っていた。最初に見た一切れだけではない。賄いの残りも、作り置きも、記憶の底から這い上がってきたみたいに、無数の卵焼きが厨房を埋めている。床にまで降りたものがあり、小さな波のように伊織の靴先へ寄せてきた。逃げ場は、ほとんどなかった。 「伊織、こっち!」 真帆が勝手口の方へ腕を引く。だが一歩踏み出した途端、足元の皿が甲高く鳴って道を塞いだ。追い詰められているのに、不思議と襲われる気配はない。ただ、どこへ逃げても、最後にはコンロの前へ戻される。まるでこの場所から目を逸らすことだけは許さないと言われているようだった。 伊織は暗がりの中で、祖母のレシピ帳に触れた。布越しでも、紙の角のくたびれがわかる。心を映す卵焼き。悔い深き者の前では寄る。追うのではなく、向き合わせるために近づく。その一文が、雷の残響よりもはっきり胸に響いた。 自分はずっと勘違いしていたのだ、と伊織は思う。卵焼きは祖母の怒りではなかった。店に居ついた怪異でもない。みなと屋に残された、言えなかったこと、教えきれなかったこと、受け取りそこねた気持ちの形だった。そして何より、それに強く色を与えていたのは自分自身の後悔だ。 祖母が倒れる前の晩、覚えるはずだった味から逃げたこと。継ぐと言いながら、祖母の背中に甘えていたこと。亡くなってからも悲しむより先に、失敗するのが怖くて台所に立つたび手を止めていたこと。卵焼きたちは、その全部を知っているように静かに寄ってくる。責めないからこそ、逃げようのない優しさだった。 「俺のせいだ」 声にすると、雨音の奥で何枚もの皿が小さく鳴った。肯定するようでも、慰めるようでもある音だった。伊織は目を閉じ、祖母の手を思い出す。少し節くれ立っているのに、卵を返すときだけ妙にやわらかかった指先。味は手の迷いを知る。あの言葉はきっと、料理だけの話じゃない。 目を開ける。闇の中で、無数の卵焼きがこちらを見ている気がした。伊織はもう後ずさりしなかった。恐怖の正体は、この黄色い塊ではない。受け継げなかったと思い込んで、自分で扉を閉めていた弱さそのものだ。ここで向き合わなければ、みなと屋は祖母の記憶ごと止まったままになる。 「真帆、明かり」 真帆はすぐにスマートフォンの灯りを点け、コンロを照らした。小さな白い光の中で、フライパンが鈍く光る。周囲の卵焼きたちはなおも迫っているのに、伊織の胸の震えは不思議と収まっていた。追い詰められた果てに、ようやく立つべき場所へ戻ってきたのだとわかったからだ。 伊織は新しい卵を手に取った。冷たい殻の丸みが、はっきりと現実を伝えてくる。祖母の味をそのまま継ぐことはできない。けれど未練と記憶に飲まれるのではなく、それを受け取って、自分の手で返すことならできるはずだ。嵐の夜、無数の卵焼きに囲まれた厨房の中心で、伊織はようやく、本当に向き合う覚悟を固めた。
卵焼き迫る、継ぎ味の夜
全年齢小説ID: cmnfe7won003s01qlo5sdllku
