伊織は卵をひとつずつボウルに割り入れた。殻の砕ける音に混じって、周囲の皿が微かに鳴る。まるで急かすでも脅すでもなく、見届けるために息をひそめているようだった。真帆の灯りが手元を照らし、黄身が揺れるたび、金色の輪がボウルの内側を滑った。 菜箸を入れる。かき混ぜるのではなく、ほどくように動かす。祖母の背中を思い出そうとすると、もう胸はひどく痛まなかった。代わりに、あの人が毎朝立っていた場所の温度が、ゆっくり掌に移ってくる気がした。混ぜすぎるな。甘さを怖がるな。火を急かすな。レシピ帳の言葉は、叱責ではなく、今の自分へ手渡される順番待ちの声だった。 砂糖を落とす。出汁を加える。少しだけ醤油を垂らす。祖母と同じにはならない。それでもいいのだと、今夜は思えた。継ぐというのは写し取ることではなく、受け取ったものを自分の手の迷いごと差し出すことなのかもしれない。 フライパンに油をひく。真帆が照らす光の中で、表面がしっとりと熱を帯びた。卵液を流し入れると、じゅ、とやさしい音がした。その瞬間、厨房のあちこちで鳴っていた皿の音がぴたりと静まる。無数の卵焼きが見守る中、伊織は端を持ち上げ、そっと巻いた。 一巻き。二巻き。形はまだ少し歪む。だが手は止まらない。うまくできないことを恐れていた頃より、ずっとまっすぐ火を見つめられた。卵液を重ねるたび、店の中に香りが満ちていく。懐かしいだけではない、初めて自分でたどり着く匂いだった。 最後の層を巻き終え、伊織は息を吐いた。巻きすで形を整え、包丁を入れる。断面はふっくらとして、中心にわずかなやわらかさが残っている。祖母のものより不器用で、それでも確かに、みなと屋の卵焼きだった。 皿に盛ったとき、店内を満たしていた気配が波のように引いた。調理台の上も床の上も、あれほど並んでいた卵焼きたちは静かに動きを止め、次の稲光では、ただの作り置きや空の皿に戻っていた。嵐の音はまだ外にあるのに、厨房だけが朝の前みたいに穏やかだった。 真帆が小さく笑う。 「終わった、のかな」 伊織はできたてを一切れつまみ、口に運んだ。甘みが先にほどけて、そのあとに出汁のやさしさが残る。祖母の味とは違う。けれど、違うまま胸の奥へ落ちていくその温かさに、伊織は初めて救われる気がした。 「たぶん、これでいい」 その言葉は、祖母にも、自分にも向けたものだった。雨は少しずつ弱まり、遠くで夜明け前のトラックの音がした。みなと屋はまだ続いていける。怖さごと抱えながらでも、ここで作っていける。伊織はそう思い、湯気の立つ皿をカウンターへ運んだ。 そのとき、誰も触れていないはずの隣の空皿が、ことりと小さく揺れた。
卵焼き迫る、継ぎ味の夜
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