「……ここなら、少しはましだろ」 浩平は息を切らしながら、屋上の柵にもたれた。風が強い。冷えた空気が頬を叩き、廊下でまとわりついていた甘い匂いを、少しずつ引き剥がしていく。だが安心した瞬間、ポケットの奥で何かが軽く跳ねた気がした。 「見ないで」 澪が短く言う。浩平が顔を上げるより早く、彼女は屋上の床を見つめたまま続けた。 「逃げるほど、あれは形を増やす。さっきの境目も、その前も、全部そう。目を逸らしたぶんだけ、はっきりするの」 「じゃあ、俺はどうすりゃいいんだよ」 声が裏返った。浩平は自分でも情けないと思いながら、柵を握る手に力を込める。風が強まるたび、下の街の光がかすんで見えた。 澪は答えず、静かに一歩だけ近づいた。 「これは単なる怪異じゃない」 その言葉に、浩平の背中が強張る。 「浩平が見ないふりをしてきた事故の証人よ」 「証人……?」 「ええ。忘れたことにされるのを、ずっと待ってたみたいに」 その瞬間、浩平の視界の端で黄色が跳ねた。屋上の隅、さっきまで何もなかったはずの場所に、一切れが転がっている。次の瞬間、それが風に浮いた。 ぱさ、と軽い音がして、空中へ舞い上がる。卵焼きは布切れみたいに揺れながら、柵の向こうの闇へ落ちることなく、まるで誰かに引き上げられるみたいに高く跳ねた。 「うそだろ……」 浩平が目を見開く。すると、床の反対側でも黄色がちらついた。ひとつ、またひとつ。どれも同じ形なのに、少しずつ焼き色が違う。 澪が唇を噛む。 「ほら。逃げるほど増えるって言ったでしょ」 浩平は息を呑んだ。風に煽られた卵焼きが、空中で不自然に回転する。そのたびに、胸の奥に押し込めていたものまで一緒に浮き上がってくる気がした。幼い日の台所。割れた音。振り返らなかった自分。 「俺が……」 言いかけた言葉は、強い風にさらわれる。澪は浩平を見たまま、小さく首を振った。 「まだ全部、言わなくていい。でも、もう目を逸らし続けるのは無理」 屋上の上空で、卵焼きがもう一度跳ねた。今度は一切れではない。複数の黄色が、風の流れに押されてばらばらに舞う。 浩平はそれを見上げたまま、喉の奥が痛くなるのを感じていた。
卵焼き迫る、継ぎ味の夜
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