空皿の揺れは、本当にわずかだった。見間違いと言い切るには確かで、怪異と呼ぶにはあまりにも静かだった。真帆も気づいたらしく、笑いかけた口元をそのまま止める。スマートフォンの灯りが白く皿の縁をなぞり、その薄い影が調理台に震えた。 だが次の瞬間、皿はもう動かなかった。嵐の名残の雨音が遠のき、店の奥にこもっていた重たい気配も、潮が引くように消えていく。伊織は息を詰めたまま空皿を見つめ、それから自分の作った卵焼きへ視線を戻した。湯気はまだ細く立ちのぼり、甘い香りが、今度は恐怖ではなく食堂の夜らしいぬくもりとして漂っていた。 真帆が肩の力を抜いて言う。 「脅かさないでよ、最後まで」 伊織はかすかに笑った。けれど胸の奥には、不思議なくらい穏やかな実感があった。あれは終わっていないという合図ではなく、もう大丈夫だと確かめるための、名残のように思えた。祖母は昔から、何かを言い切る代わりに、小さな仕草だけ残す人だった。味噌汁の火を止める音や、皿を置く手つきで、言葉以上のことを伝えていた。あの空皿の揺れも、どこかそれに似ていた。 停電はほどなく戻った。蛍光灯がふっと点き、見慣れた白い厨房が現れる。無数に見えた卵焼きはもうなく、そこにあるのは使い慣れた調理台と、洗いかけのボウルと、切り分けられた一皿だけだ。真帆がスマートフォンを下ろし、レシピ帳を胸に抱え直す。 「明日、いや今日か。朝の仕込み、手伝うよ」 「書店は」 「少しくらい遅れても死なない」 その言い方が可笑しくて、伊織は久しぶりに自然に笑えた。笑った拍子に、半年ぶりに店の空気が自分のものになった気がした。守れなかった約束は消えない。祖母の味を完全に再現することも、たぶんもうできない。それでも、ここで作り続けることはできる。失ったところからしか始められないのなら、始めればいいのだ。 伊織は祖母のレシピ帳を開き、問題の頁の余白をしばらく見つめた。迷った末、棚から鉛筆を取り、祖母の文字の下に小さく書き足す。未完成でも、向き合えば味になる。 文字は少し震えていたが、それでよかった。 夜明け前の薄い青さが、雨の上がったガラス戸の向こうににじみ始める。伊織は新しい卵を冷蔵庫から取り出し、掌の上でそっと転がした。朝になれば客が来る。噂を確かめに来る者もいるだろうし、何も知らずに腹を空かせて入ってくる者もいるだろう。どちらにも、ちゃんと出せるものを作ろうと思った。 カウンターに置いた皿の上で、切り分けた卵焼きが朝の光を待っている。伊織は深く息を吸い、静かな店内に向かって、初めてはっきりと口にした。 「みなと屋は、俺が続ける」
卵焼き迫る、継ぎ味の夜
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