古い総菜工房の扉は、思ったより早く開いた。閉館前の静けさが、磨かれた床の上に薄く積もっている。浩平は澪のあとに続き、鼻先をくすぐる揚げ油の残り香に顔をしかめた。 「ここに、焼き型を作った職人の記録があるはず」 澪が棚を指差す。カードの束をめくる音だけが、やけに大きい。浩平は壁際の古い台帳に目を落とし、そこに残った薄い筆跡を読んだ。 「……地下に、使われてない調理室」 「やっぱり」 澪の声が少しだけ張る。浩平は台帳を持つ手に力を込めた。 「昔から、ここで大量に作ってたのか」 「たぶんね。でも、記録が途中で途切れてる」 紙の端は黄ばんでいるのに、その空白だけが妙に新しい。浩平はページを追ううち、ある一文で指を止めた。職人は、理想の形を求めて焼き型を調整していた。だが最後の行には、焼き上がりを誰かに見せた夜、という曖昧な言葉しかない。 その瞬間、胸の奥で何かが小さく鳴った。 見せた夜。誰か。熱い匂い。倒れた皿。 浩平は息を止め、記憶の隙間を覗き込む。幼い自分が、台所の端で立ち尽くしている。誰かが声を上げた。けれど、自分は振り返らなかった。怖かったからではない。見れば、自分が何をしたのか分かってしまう気がしたからだ。 「浩平?」 澪の声で我に返る。浩平は台帳を見つめたまま、喉の奥を震わせた。 「俺……あの事故のとき、目を逸らした」 言葉にした途端、肩がわずかに軽くなるのが分かった。だがその軽さは、許されたからじゃない。ずっと押し込めていた重いものの輪郭が、やっと触れられたからだ。 「誰かが大きく困った。たぶん、怪我だけじゃない。生活も、たぶん全部」 澪は何も遮らない。ただ静かに、続きを待つ。 浩平は唇を噛み、古い焼き型の記録をもう一度見た。整った形を作るための工夫が、まるで自分の記憶をなぞっているみたいだった。 「卵焼きは、これを形にしてたんだな」 「記憶を?」 「俺が見なかったものを、見える形で返してきた」 言い切ったあと、浩平はゆっくり息を吐いた。胸の奥で固まっていた黄色い何かが、少しだけほどける気がする。それでも完全には消えない。工房の奥、使われていない扉の向こうから、ひんやりした空気が一筋だけ流れてきた。 澪が目を上げる。 「地下、か」 浩平はその扉を見つめたまま、小さくうなずいた。 「行かなきゃ、だな」
卵焼き迫る、継ぎ味の夜
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