「じゃあ、今日から見張りを強める。相沢、屋上へ行け」 翌朝の空気は、地下会議室の湿り気を少しだけ薄めたような、乾いた冷たさを含んでいた。悠人はビルの階段を上がりながら、昨夜の大げさな宣戦布告を思い出して、ため息をこらえる。屋上へ出る扉は半開きで、錆びた蝶番が小さく鳴った。 「本当にここで何か起きるんですか……」 「起きるさ。黒鍵団は必ず来る」 先輩は胸を張ったが、その手には双眼鏡の代わりに、なぜか百円ショップののぞき穴みたいな玩具が握られている。悠人はそれを見て、余計に不安になった。 屋上の柵越しに繁華街の路地を見下ろすと、黒い上着の男が一人、壁際をすっと横切った。耳元で何かを確かめるような仕草が、やけに慣れている。 「あれだ」 悠人は反射的に身を低くした。 「追います」 「よし、いけ」 階段を駆け下り、路地に飛び出す。男は曲がり角で一度だけこちらを振り返り、何も言わずに歩調を速めた。悠人も距離を詰める。だが、次の角を曲がった瞬間、男の姿は消えた。 「見失った……?」 「おい、相沢」 背後から呼ばれて振り向くと、さっきの男が少し離れた場所で、妙に礼儀正しく会釈していた。 「追跡が荒いですね」 「え」 「失礼。今のは気配を見ました」 「そっちも尾けてたのかよ」 男は肩をすくめた。 「そちらも同じでしょう。屋上からの視線が見えたので、誘導されたと思いました」 悠人は言葉を失った。敵のはずなのに、相手の声は変に落ち着いている。しかも、さっきまでの緊張が嘘みたいに、会話だけがきちんと成立してしまう。 「黒鍵団の偵察員、ってやつか」 「夜灯会の若手実務担当、でしたか」 名乗り合いはしない。なのに、互いの立場だけはなぜか透けて見える。 男は路地の反対側へ一歩下がり、ふっと目を細めた。 「正直なところ、あなた方が本気で恐ろしい組織には見えません」 「そっちもな」 悠人が即答すると、男は小さく笑った。 「では、どちらも相手を大きく見積もりすぎていたのかもしれません」 その瞬間、角の向こうから別の足音が近づいた。悠人が身構えるより早く、黒鍵団の男は片手を上げる。 「また見失いました。……いえ、見つけ直しました」 「え、今のはこっちの台詞だろ」 互いに目を逸らした拍子に、どちらも同じ狭い路地の出口へ向かっていたと気づく。逃げたはずの相手と、追うはずの自分が、結局は同じ方向へ流されているだけだった。 「次は、もう少し静かにやりましょう」 男が妙に丁寧に言う。 悠人も、なぜか同じ調子で返していた。 「ああ。……できれば、最初からそうしたい」 敵同士のはずなのに、礼儀だけがやたら整っていく。悠人は自分でもおかしいと思いながら、路地の先で立ち尽くし、相手もまた同じように立ち止まっているのを見た。どちらの組織も、思ったよりずっと小さくて、思ったよりずっと弱そうだった。なのに、なぜこんなに大仰なのか。その答えだけが、まだ霧の向こうで揺れていた。
黒マント同好会対白手袋クラブ
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