美咲が向こうへ行くと決めてから、俺たちの会話は少しだけ形を変えた。以前みたいに何でもすぐ打ち明けるわけではない。それでも、沈黙の重さは確かに軽くなっていた。言わないことで守れるものもあるが、言わなければ失うものもある。その単純なことに、今さら気づいたのだ。 一週間後の午後、美咲は駅前の喫茶店に入ってくるなり、外したばかりのマフラーを手に持ったまま笑った。窓際の席には、あの日と同じように柔らかい光が落ちている。俺は先に頼んでおいたブレンドを指で包みながら、彼女が座るのを待った。 「結論、出した」 美咲の声は静かだった。けれど、迷いが消えた静けさだった。 「向こうでやる。祖母のことも、仕事も、今の自分にできる形で続ける。全部を捨てるみたいな選び方は、もうしない」 俺はうなずいた。予想していた答えではあった。それでも、実際に聞くと胸の奥が少しだけ痛んだ。 「そっか」 「驚かないんだ」 「驚いてはいる。でも、止める理由にはならないだろ」 美咲は小さく息を吐き、カップに視線を落とした。 「本当は、少し怖い。行ったら、今みたいには会えなくなるかもしれないから」 「なら、今みたいに会えるように考えればいい」 言ってから、自分でも少し意外だった。引き留める言葉でも、正しさを押しつける言葉でもなく、ただ一緒に考えるための言葉だった。 美咲は目を丸くして、それからやっと笑った。 「そんなふうに言ってくれるとは思わなかった」 「俺もだ」 窓の外では、春先の風に乗って街路樹の葉がかすかに揺れていた。いつもと同じ道、同じ看板、同じ駅前なのに、景色だけが少し先へ進んでいるように見える。美咲は封筒を取り出し、今度は隠すことなくテーブルに置いた。転居の案内ではなく、勤務先の変更届だった。印字された文字はきれいに整っているのに、その一枚が彼女の決意をはっきり物語っていた。 「行く前に、ひとつだけ約束したい」 美咲が言う。 「黙って消えない。寂しいときは寂しいって言うし、助けてほしいときはちゃんと言う。格好悪くても、そっちのほうがいい気がする」 「それでいい」 そう答えると、彼女は少し肩をすくめた。 「じゃあ、あなたも」 「俺も?」 「無理して平気な顔をしないで。待つのがつらいなら、つらいって言って」 その言葉は、胸の奥にまっすぐ届いた。ずっと、俺のほうこそ平気なふりをしていたのだと気づかされる。守りたい気持ちがあるほど、人は強くなれるが、同じぶんだけ不器用にもなる。 会計を済ませて店を出ると、夕暮れはもう街の輪郭をやわらかくしていた。改札の前で、俺たちは少し離れて立つ。触れられる距離なのに、今日は触れない。それが不思議なくらい自然だった。 「次に会う日、決めよう」 美咲が言う。 「うん」 「それまで、ちゃんと生きてるから」 「当たり前だ」 俺が笑うと、美咲も笑った。けれど、その笑顔の奥には、以前とは違う影があった。遠くへ行く人の顔だ。遠くへ行っても、戻る場所を知っている人の顔だった。 翌朝、俺が喫茶店の扉を開けると、窓際の席に白い花が一輪置かれていた。店主は何も言わず、ただいつものブレンドを差し出した。花は誰が置いたのかわからない。けれど、確かにそこにある。 俺は席に座り、湯気の向こうに揺れる白を見つめた。昨日までの違和感は、もう胸を締めつけない。失うかもしれない不安の代わりに、続けていける形を探す静かな意志が残っていた。日常は完全には戻らない。だが、戻らないからこそ、新しい色をまとって続いていく。
言えなかった朝の手紙
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