エラベノベル堂

言えなかった朝の手紙

全年齢

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5章 / 全10

美咲が向こうへ行くと決めた夜から、俺たちの距離は不思議なくらい静かに縮まった。近づいたというより、ようやく同じ場所を見られるようになった、というほうが正しい。互いに隠していたものの輪郭が見えたぶん、会話は以前より慎重で、それでもずっと誠実だった。 出発まで三日という連絡が来たのは、雨の夕方だった。駅前の喫茶店の窓を叩く雨粒が、豆を挽く音と重なって、妙に胸に残る。俺がスマホを見つめていると、美咲から短いメッセージが届いた。今夜、話したい。たったそれだけだったが、そこにはもう迷いではなく、決めるための静けさがあった。 店に入ってきた美咲は、濡れた傘を丁寧にたたみ、いつもの席に座った。紙袋も封筒もない。けれど、その手元だけが少し落ち着かなかった。 「向こう、行く前にこれだけは言っておきたくて」 彼女はそう言って、まっすぐ俺を見た。 「最初に黙ってたのは、あなたを傷つけたくなかったからじゃなくて、私が怖かったから。ちゃんと話して、何かが変わるのが怖かった。失うのが怖いのに、失う準備だけしてた」 俺は黙って聞いた。謝罪を待っていたわけじゃない。今必要なのは、言い訳の整理ではなく、彼女自身の言葉だった。 「でも、もう逃げない。行くのは決めた。祖母のことも、仕事も、今の私には必要だから。でも、こっちとの全部を切るつもりはない」 窓の外で雨脚が少し強くなる。喫茶店の灯りがガラスに滲み、店内の時間だけがやけにゆっくり流れていた。 「全部を守るのは無理かもしれない。でも、守り方は選べる」 美咲の声は震えていなかった。その事実が、逆に胸を打った。俺はようやく、ここまで来るのにどれだけ彼女が一人で踏ん張っていたのかを知る。 「俺も、答えを急がせたくなかった。けど、待つって言いながら、置いていかれる想像ばかりしてた」 言葉にすると、みっともなさが滲む。それでも隠したくなかった。 美咲は少しだけ目を伏せ、それから笑った。 「それでも、待ってくれたんだね」 「待ったというより、逃げなかっただけだ」 「十分だよ」 その一言で、胸の奥の硬い殻がひとつ割れた気がした。完全にわかり合えたわけじゃない。けれど、わからないまま終わるのではなく、わからないことを抱えたまま続いていく道がある。 美咲は鞄から勤務先変更の書類を出した。印字された文字の上に、雨上がりの店内の光が落ちる。 「向こうでしばらく暮らす。でも、戻ってくる場所は失くさない。だから、これは別れの紙じゃない」 俺はその紙を見て、予想外に肩の力が抜けた。別れのはずだと決めつけていたのは、自分のほうだったのかもしれない。 「なら、送るよ」 「駅まで?」 「それもあるけど、戻ってこられるように」 美咲は目を見開き、次の瞬間には泣きそうな顔で笑った。 翌朝、喫茶店の窓際の席に白い花が一輪置かれていた。昨夜までそこにあった雨の気配はもうない。花のそばには小さなメモがあり、次に会う日付だけが書かれていた。誰が置いたのか、店主は何も言わない。ただ、少しだけいつもより柔らかい顔をしていた。 俺はその席に座り、湯気の立つブレンドを見下ろした。美咲は今日、遠くへ行く。けれど、それは終わりではなかった。守るために離れることもあるのだと知った今、日常は少しだけ違う形で続いていく。窓の外では、昨日よりも明るい光が路面を照らしていた。

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