美咲が向こうへ行く日取りを告げたのは、雨がやんだ翌朝だった。駅前の喫茶店の窓にはまだ細かな水滴が残っていて、朝の光をやわらかくほどいている。俺はブレンドに口をつけたまま、向かいに座る彼女の顔を見た。そこにあるのは、迷いではなく、覚悟に近い静けさだった。 「今日、出発する」 たったそれだけで、店内の空気が少しだけ重くなる。けれど、美咲はその沈黙に押しつぶされることなく、まっすぐ続けた。 「祖母のことも、仕事のことも、こっちで全部抱えたままでは無理だった。向こうに行くのは逃げるためじゃない。戻ってくるために、ひとまず形を整えるため」 俺はうなずくしかなかった。止めたい気持ちは、喉の奥で何度も形を変えた。それでも、それは彼女の選択を奪う理由にはならない。何も知らずに寂しがっていた昨日の自分が、急に幼く思えた。 「黙って行かれるのが嫌だった」 やっと出た言葉に、美咲は小さく息を吸った。 「ごめん。怖かったの。話したら、引き止められるか、突き放されるかのどちらかだと思ってた」 「そんなことはしない」 「うん。今はわかる。でも、あの時はわからなかった」 正しさよりも、怖さのほうが先に立つことがある。俺たちはそれを、ようやく言葉にできる場所まで来たのだろう。 美咲は鞄から、折りたたまれた紙を取り出した。勤務先の変更届だった。印字された文字の上に、彼女の指先が静かに重なる。 「これで終わりじゃない。向こうに行っても、連絡はする。寂しいときは寂しいって言うし、助けてほしいときはちゃんと言う。そう決めた」 その言葉が、胸の奥にまっすぐ落ちた。会えない時間を恐れるあまり、見えなくなるものがある。だが、見えないから終わるわけではないのだ。 「俺も、待つって言いながら平気なふりをしてた。正直、かなり不安だった」 美咲は少しだけ目を見開いて、それから笑った。 「それでも待ってくれたんだね」 「待ったというより、逃げなかっただけだ」 「十分だよ」 店主が近づき、会計を置いていく。いつもの動作なのに、今日は妙にゆっくり見えた。俺たちは並んで席を立ち、店の外へ出た。湿ったアスファルトが朝の光を返し、駅へ向かう人の足音が少しずつ増えていく。 改札の前で、美咲は立ち止まった。 「次に会う日、ちゃんと決めてある」 「うん」 「だから、これは別れじゃない」 その一言で、胸のどこかがほどけた。完全に安心したわけじゃない。それでも、終わりだと決めつけていた時間に、別の名前がついた。 美咲が電車へ向かう背中は、思っていたよりもまっすぐだった。俺はその背中を見送りながら、今朝まで重く沈んでいた日常が、少しだけ違う色を帯びているのを感じていた。 喫茶店に戻ると、窓際の席に白い花が一輪置かれていた。誰が置いたのかはわからない。だが、そこにあるだけで、空いた場所は空白ではなくなっていた。俺は席に座り、湯気の立つカップを見つめる。 美咲は遠くへ行く。けれど、戻る場所を決めたまま行くのなら、失われるものばかりではない。日常は元通りにはならない。だが、元通りにならないことが、こんなにも静かな希望になるとは思わなかった。
言えなかった朝の手紙
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