エラベノベル堂

言えなかった朝の手紙

全年齢

小説ID: cmnff1ouz000f01o7ak11fbq4

7章 / 全10

美咲を見送る朝、駅前の喫茶店にはまだ雨上がりの匂いが残っていた。窓際の席に差し込む光はやわらかいのに、俺の胸の内だけが妙にざわついている。向かいに座る美咲は、いつも通り整えた髪を耳にかけ、落ち着いた顔でカップを持っていた。けれど、その指先だけがわずかに震えている。 「行く前に、最後に話したい」 その言葉に、俺はうなずくしかなかった。あれほど迷っていたはずの彼女が、今はもう引き返す気配を見せない。向こうへ行くことは、祖母の世話や仕事を抱えた彼女にとって、ようやく選べた一歩なのだとわかっていた。わかっているのに、心は勝手に置いていかれる痛みばかり拾い集める。 美咲は鞄から、小さな封筒を取り出した。転居の案内ではなく、駅近くの部屋の契約書だった。そこに印字された住所を見て、俺は息をのむ。思っていたより遠い。けれど、予想外だったのは距離じゃなかった。 「最初は、全部終わるつもりでいたの」 美咲は静かに言った。 「でも、あなたと話してから、終わらせる必要はないって思った。離れることと、切ることは違うんだって」 俺は返事ができなかった。今日ここに来るまで、何度も頭の中で別れを準備していた。優しい言葉を選ぶ練習も、平気なふりをする練習もした。それなのに、美咲の口から出たのは別れではなく、続けるための言葉だった。 「向こうで暮らす。でも、期限を決めた。祖母のことが落ち着くまで。仕事も、その間は一度整理する。全部を捨てたら、私じゃなくなる気がしたから」 俺はカップの縁を見つめたまま、ようやく口を開いた。 「黙って行かれるのは、やっぱり嫌だった」 「うん」 「でも、止めるのも違うと思った」 美咲は小さく息を吐いた。その表情に、初めて迷いがほどける。 「ありがとう。そう言ってくれて、やっと安心した」 その一言で、胸の奥の硬いものが崩れた。守りたい気持ちが強いほど、人は黙り込む。だが、黙って守れるものには限りがある。俺たちはそれを、遅れて知っただけだ。 「じゃあ、約束しよう」 俺が言うと、美咲は少しだけ目を丸くした。 「連絡を絶たない。しんどいときはしんどいって言う。会える日を決める。曖昧なまま終わらせない」 「うん」 「それと、戻る場所をちゃんと残す」 美咲は目を伏せ、それから笑った。泣きそうなのに、前を向く顔だった。 「それ、いちばん欲しかった言葉かもしれない」 店を出ると、空はすっかり晴れていた。改札へ向かう人の流れの中で、美咲は一度だけ立ち止まり、俺を見た。 「行ってくる」 「行ってこい」 たったそれだけで、別れの重さが少し変わった気がした。彼女の背中は遠ざかっていくのに、切れた感じがしない。むしろ、見えなくなるほど、次に会う日がはっきりしていく。 俺が店に戻ると、窓際の席に白い花が一輪置かれていた。さっきまでそこは空席だったはずなのに、今は不思議と空白に見えない。店主は何も言わず、いつものブレンドを差し出した。 カップから立つ湯気を見つめながら、俺は思う。失うはずだったものは、形を変えて残ることがある。美咲は遠くへ行く。けれど、それは終わりではない。今日からの静かな日常には、昨日まで知らなかった名前がついていた。

7章 / 全10

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