出発の日の朝、駅前の喫茶店はいつもより静かだった。窓際の席に差し込む光は淡く、ガラスの向こうを急ぐ人たちの足音だけが、かすかな波のように店内へ届く。俺の前には飲みかけのブレンドがあり、その向かいに美咲が座っていた。今日で最後になるかもしれない、そんな言葉を口にせずに済むくらい、彼女はまっすぐ前を見ていた。 「もう行くね」 美咲はそう言って、鞄の持ち手を握り直した。祖母のこと、仕事のこと、向こうでの暮らし。全部を一度に抱え込むのは無理だと、彼女はようやく認めたのだとわかる。けれど、そこに弱さだけはなかった。むしろ、迷いを抜けた人だけが持つ静かな強さがあった。 俺はうなずいた。引き止めたい気持ちは、胸の奥でまだ熱を持っている。それでも、ここで縛りつけるのは違う。あの日からずっと、黙っていたのは俺も同じだった。大事だからこそ言えなかったことがあると、今ならわかる。 「行っても、戻ってこられる場所はある」 そう言うと、美咲は少しだけ目を見開いた。次の瞬間、困ったように笑う。 「それ、ずっと聞きたかった」 「なら、ちゃんと言えばよかったな」 「うん。でも、今で十分」 美咲は小さく息を吐き、それから鞄から白い封筒を取り出した。転居の案内でも契約書でもない。駅までの地図が入ったメモだった。そこには、向こうの住所と、こちらへ戻る予定の日付が並んでいる。予想していたよりもずっと具体的な文字列に、俺は少しだけ笑ってしまった。 「全部を曖昧にしないことにしたの」 彼女は言った。 「黙って離れるのは違うって、やっとわかったから。寂しいときは寂しいって言うし、助けてほしいときはちゃんと言う。見栄を張って、ひとりで壊れるのはもうやめる」 その言葉は、背中を押すというより、互いの足元を確かめるみたいに落ち着いていた。俺は湯気の向こうで揺れるカップを見つめる。 「俺も、平気なふりはしない。待つのがつらい日もあると思う。けど、つらいって言う」 美咲は少しだけ目元をやわらげた。 「それでいい。たぶん、そういうのが必要だったんだと思う」 店主が静かに会計を置いていく。いつもの動作なのに、今日はやけに大切に見えた。美咲は立ち上がり、席を離れる前に一度だけ窓の外を見た。春の光が駅前の舗道を明るく照らしている。 改札まで一緒に歩く道すがら、俺たちは何度も言葉を選び直した。さよならは似合わない。だから別の名前を探す。 「また連絡する」 「うん」 「次に会う日も、ちゃんと決める」 「わかった」 改札の前で立ち止まると、美咲は少しだけ迷って、それから笑った。泣きそうな顔だったのに、どこか晴れやかでもあった。 「じゃあ、行ってくる」 「行ってこい」 彼女はそれ以上何も言わず、背を向けた。遠ざかる背中を見送っているのに、不思議と切れた感じはしなかった。終わったのではなく、形を変えて続いていくのだと、ようやく身体が理解したみたいだった。 俺が喫茶店へ戻ると、窓際の席に白い花が一輪置かれていた。誰が置いたのかはわからない。けれど、さっきまで空席だった場所に、確かな気配だけが残っている。隣のテーブルでは、大学生らしい二人が何気ない会話をしている。その声はもう、前みたいに遠くなかった。 ブレンドをひと口飲む。少し苦い。けれど嫌いじゃない味だ。 美咲は遠くへ行く。だが、遠くへ行くことは消えることではない。今日からの日常は、昨日までと同じ形では続かない。それでも、失うと思っていたものが戻る場所を持つなら、未来はまだ選べる。 窓の外では、駅へ向かう人の列が絶えず流れていた。俺は白い花を見つめながら、次に美咲が帰ってくる日を、もう怖がらずに待てる気がしていた。
言えなかった朝の手紙
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